陶淵明の「桃花源記」に描かれた桃源郷は俗世を離れた理想社会です。その昔、武陵の漁師が迷い込んだ桃林の果てに、その村があったといいます。
晋の太元中、武陵の人、魚を捕らふるを業と為す。渓に縁うて行き、路の遠近を忘る。忽(たちま)ち桃花の林に逢ふ、岸を夾むこと数百歩、中に雑樹無く、芳草鮮美にして、落英繽紛(ひんぷん)たり。漁人甚だ之を異(あや)しむ。復た前み行きて、其の林を窮めんと欲す……
江戸時代の大坂の町から見て、桃源郷はどこにあったでしょうか。武陵の漁師がそうしたように、舟で行く場所であることが条件の1つでしょう。生駒山人に次の五言律詩があります。
自浪華還 浪華自り還る
浪華城下水 浪華城下の水
歸客此揚舲 帰客此に舲を揚ぐ
日落綿花白 日落ちて綿花白く
江澄蘆荻青 江澄て蘆荻青し
埀綸應我友 綸を垂るは応に我が友なるべし
傍竹問誰亭 竹に傍ひて誰か亭をか問はん
知是家人輩 知んぬ是れ家人の輩
攜來炬一星 携へ来たる炬一星
(『生駒山人詩集』巻之一)
大坂から舟で帰るようすを詠んだこの詩の頷聯には「日落ちて綿花白く 江澄て蘆荻青し」白い綿の花と青々とした蘆とあります。生駒山人の宅は河内木綿で栄えた河内の日下村にありました。
故郷を愛した生駒山人は、日下村の田園詩を多く残しています。
日下四時吟 日下四時の吟
河陽日下村 河陽日下村
多少桃花樹 多少桃花樹
如逢漁夫來 如し漁夫の来たるに逢へば
可問避秦住 問ふべし秦を避けて住するやと
「河陽日下村 多少桃花樹」(この「多少」は多いという意味)とあるように、生駒山人の詠む春の日下村には、しばしば桃が登場します。かつて河内の稲田村は一帯が桃林で、稲田桃は大坂や京都に出荷されていたといいますが、日下村にも稲田桃は植えられていたのでしょう。「如し漁夫の来たるに逢へば 問ふべし秦を避けて住するやと」が「桃花源記」を意識していることは言うまでもありません。桃源郷の条件の2つ目は、そこに行くまでに桃林を通過することです。
『河内名所図会』六巻「稲田桃林(いなだのももばやし)」には生駒山人の七言絶句が添えられています。
誰家年少野村西 誰が家の年少ぞ野村の西
沙岸停舟路欲迷 沙岸舟を停めて路迷はんと欲す
十里桃林花未落 十里の桃林花未だ落ちず
始知身到武陵渓 始めて知る身は武陵渓に到るかと
生駒山人の遺した詩を詠んでいると、山人が故郷の日下村を桃源郷に擬えていたことがわかります。山人の詩の世界だけでなく、日下村を訪れた大坂の文人たちは、見事な桃林にまさに桃源郷に来た気分になったことでしょう。稲田桃は明治期に一旦姿を消しましたが、近年市民によって再生し、郷土の名産として知られるようになったとのことです。
平成27年8月6日 郷土の名産「稲田桃」を地元児童が収穫 | 東大阪市
平成30年3月26日 春の風物詩 稲田桃の花が満開 | 東大阪市
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生駒山人こと日下生駒(正徳二年(1712)~宝暦二年(1752))は真蔵、また勝二郎といい、孔舎衙(日下)の孔をとって孔文雄とするものもあります。河内国河内郡日下村(現東大阪市日下町)の庄屋、森長右衛門の長男として生まれました。
河内を代表する漢詩人で、惜しくも四十歳の若さで世を去りましたが、生前から詩人としてその才能を知られていました。京都の龍草蘆と親しく、龍草蘆の詩社、幽蘭社の詩人でありました。
現代では忘れ去られていることが多い江戸時代の詩人の中で、生駒山人は地域の人々に知られています。日下村に残された古文書については、浜田昭子氏の主宰する日下古文書研究会が翻刻、紹介する活動を続けておられますが、生駒山人を輩出した森家についても、森長右衛門の残した『日下村森家庄屋日記』(2005)などが出版されています。
特に生駒山人に関しては、会員の山路孝司さんが熱心に取り組んでおられ、会報『くさか史風』に生駒山人の詩の注釈や伝記関係の論考などを次々に発表しておられます。
追記
このとき考えていたことを元に論文を書きました。