明治の漢文学史に於いて、これまで知られていなかったが、 乙訓地域には共研吟社という宇田栗園が主宰した漢詩結社があり、 一地方とは思えぬ賑わいを見せていた。川崎鉄片は この乙訓漢詩壇の優れた詩人の1人である。
嗣子川崎末五郎が上梓した鉄片の『鉄片遺稿』には、政治家らしく「総選挙後三日、桂村・香雪二公訪らる」などの選挙に関わる作や、「征露の役戦死者小野某を弔う」という日露戦争の戦死者を弔問する作がある。また「満韓游草」と題する連作もあって、鉄片が満州や朝鮮に渡っていることがわかる。
ところで同詩集には「又金秀才の韻に次す」と題する、「 金秀才」との交友が伺える作があり、よくわからないままだった。「 秀才」とは科挙に合格した者の称号であり、日本人ではない。 これまで人物が特定できなかったが、 富永屋に現存する額から、それが日本の明治維新をモデルに近代化を目指した朝鮮開化派の金玉鈞の養子、金英鎮である可能性が非常に高くな った。
額は「富貴長楽」という典型的なめでたい辞が記されたもので、金英鎮の署名がある。金玉均が日本に亡命していたことはわかっているが、金英鎮も来日し、富永屋に滞在していたのである。私はこのあたりに疎いのだが、近代史の研究において、金英鎮も来日していたということは明らかになっているのだろうか(私が読んだ本にはそのような記述はなかった)。もし明らかになっていないのなら、この扁額は来日の貴重な証左となる。金玉均は宿泊していたのかどうか、宿泊の日時の特定なども、富永屋の宿泊名簿も確認しておくべきであろう。
川崎鉄片の属した共研吟社は、向日神社や長岡天満宮など乙訓の名所でしばしば詩会を持っていた。富永屋は西国街道沿いにある旅籠で、向日神社の向かいに位置する。江戸時代から日本の漢詩人たちにとって、長崎の商館の中国人や朝鮮通信使と詩のやりとりをするのは憧れだった。乙訓の吟社の詩人たちが、向日神社門前の富永屋に宿泊している朝鮮の知識人と接点を持とうとしないのは考え難い。「金」はよくある姓であるし、朝鮮渡航の際に別人と詩の応酬があった可能性も否定できないが、他に共研吟社周辺で「 金秀才」と呼べる人物は浮かんでこない。また、朝鮮開化派の亡命者たちの日本での複雑な立場を考えれば、あえて特定できない「金秀才」という表記にしたのかもしれないという推測も、邪推とは言いきれないと思う。
追記
姜健栄『開化派リーダーたちの日本亡命: 金玉均・朴泳孝・徐載弼の足跡を辿る』朱鳥社2006
を見た限りでは、金英鎮についての記述はなかった。この扁額が富永屋で書かれたものなら金英鎮が日本に来た証左になる。