富永屋がなくなる

   自分の無力をひしひしと感じている。

   向日市に現存する江戸時代の旅籠、富永屋が解体されるのを知ったのは4月のこと、ネットでいくつかの記事に上がっていた。紙の方も見た。信じられなかった。

   私は以前、向日市を含む乙訓地域の漢詩を取り上げて4本の論文を書いたことがある(現在、和歌に関する1本も投稿済みである)。最初、この地域に残された史料を調査に行くとき、私は漢詩の流行が地方にまで及んでいたとでもいうくらいの感覚でいた。正直なところ田舎の、素朴で愛すべき、しかし稚拙な詩人たちがせいぜい数人と思っていたのである。

   ところが調べ始めてみると、乙訓の詩人たちは神足村出身の宇田栗園を中心に、京都から栗園の友人で当時の詩壇の大御所である江馬天江を招き、非常に熱心に活動していたのであった。私は認識を改め、最初の論文の続編を書いて、それまで知られていなかったこの地方の詩壇を「乙訓漢詩壇」と名付けた(名付けたというか、そのまんま)。

    乙訓の人たちが当時の一流の詩人たちを招くことができたのは、ひとえに京都に向かう西国街道沿いという地の利によるものだ。向日市はその誕生から「町」として始まり、乙訓の中心として栄えた。現存する旅籠、富永屋は乙訓の豊かさのよってくるところのシンボルというべき存在である。もし仮に、将来、この古い道沿いの町屋が一つ一つなくなっていくとしたら(考えるのも苦しいが)、最後に残すべきは富永屋だろう、そういう存在だと思う。それがこんなに早くなくなってしまうことになるとは。

   文化財を個人所有として受け継ぐ者は、誇りを持ってその負担をも引き受けなければならない──そう考える人は多い。そして手放したり解体したりする持ち主は暗に非難される。実際、富永屋の件の報道があったとき、解体を決めた持ち主について、市の買い取り額に満足しないからといって文化財を破壊し、どこにでもあるような住宅を建てるのかと嘆く人は私の周りでも多かった。文化的価値のわからない持ち主で不運だったというわけだ。無理もない、報道(特に読売新聞の記事)は、そう読める文脈だったし、テレビの報道も持ち主がどれだけ苦しんだかはまったく伝わらないものだった。

   私は古い家屋が壊され、どこにでもあるような住宅になっていくのは仕方のないことだと思っている。私自身、空襲を免れて古い町並みが残る町に生まれ育ち、高度経済成長とバブルの時期に古い家屋が次々に毀たれていくのを見てきた。恩師のご自宅は重要文化財(私が在学時は国宝)で、そういうお宅を守っていく大変さも知っているつもりである。私なら積水ハウスに住むよりは、富永屋を修景してウン代目甚右衛門を名乗って住む方がおもろい人生だと思うけれど、ふつうの人はそうではないのもわかっている。暗くて寒くて段差があって不便で、ちょっとの修理で大金がかかる家屋に住むことを、他人が強いることはできない。

   そう、他人が住めと強いることはできないから、持ち主には行政がサポートする仕組みができている。向日市の場合、歴史まちづくり法に基づき、国交省の歴史的風致維持向上計画に認定されている。富永屋の保存活用はその重点事業になっている。

    ところが向日市は少なくとも10年前、ボランティアグループ「とみじん」の活動が始まったころから、富永屋になんのサポートもしていない。それどころか永井規男氏が所見を記した登録有形文化財の申請も何故かストップしているという。

    持ち主と向日市の交渉に何があったか詳しいことはわからない。だがこの交渉は一般の不動産の交渉ではない。商売ではないのである。向日市は市の宝として富永屋を守るため、粘り強く交渉するべきなのだ。

    それがなぜこんなデタラメなことになったのか。マスコミは向日市が熱心に交渉したというが、私が関係者に伺った実際のところは違う。高齢の持ち主は焦り、向日市の対応に絶望し、最終的には富永屋を自分の代で壊すことに決めたのだ。

    私が不思議なのは、向日市の人たちがほとんど沈黙を守っていることだ。向日市を含む乙訓は、歴史や文化に造詣の深い方たちがさまざまな活動をしている土地柄である。市に対して富永屋の交渉をやり直せと要求し、建て替えと同じくらい持ち主が安心できるプランを立ち上げる、そういう動きがほとんどない。富永屋がなくなったら西国街道沿いの歴史の町としてのシンボルがなくなるのに。土地の格も下がるだろう。京都市がオーバーツーリズムで悲鳴を上げている今、乙訓は観光客を呼び寄せる絶好のチャンスなのに、目玉の富永屋をつぶしてどうするのか。第一、国交省の予算がどうなっているのか、市民として市に開示を求めなくていいのだろうか。

    富永屋の持ち主であるご当主は、憔悴しきって、もうそっとしておいてほしいとおっしゃる。私がこんなことを書いているのも迷惑だと思う。しかしどのみちこんな弱小ブログは、すぐにインターネットの荒波に砕け散る。富永屋で検索しても例のニュースの記事にしか辿り着けなくなるだろう。

    研究者としては、富永屋を失ってしまうことは取り返しのつかない大変な損失であると言い続けるしかない。もしご当主が今からでも保存の方向を検討されるのなら、私は自分のできる限りのことをするつもりだ。同じように思っている人は他にもいる。富永屋を守ることは、日本中の同じような文化財を守ることに繋がるのだから。