きらめく感性――夭折した天才少年田中金峰の目に映った大坂

 大坂の漢詩を語る上で外せないのが『大阪繁昌詩』である。肥田皓三先生による『日本古典文学大辞典』の項を引用しよう。

大阪繁昌詩 三巻三冊。漢詩。田中金峰作。文久三年頃刊。大阪の名所旧蹟・四季行事・物産名物を詠じた漢詩一三〇首を収める。一首ごとに詩話を添え、地誌と考証随筆をかねた内容になっている。「大阪繁昌之図」と題する松川半山画の大阪鳥瞰図が巻頭にある。作者(名楽美、字君安、通称右馬三郎)は幼児より記憶力にすぐれ、十歳で既に詩を作った。生来多病、文久二年六月二十八日に僅か十九歳で没した。本書は作者が十六、七歳の時に作ったもので、没後ただちに父田中華城によって刊行された。天才少年の遺吟として、俄然世にもてはやされ、ひろく流布した。父華城が本書の後を受けて『大阪繁昌詩後編』を著し、慶応二年に続刊した。

 大坂の漢詩を読むという看板を掲げているからには、『大阪繁昌詩』の漢詩はぜひ取り上げたいところである。しかし『大阪繁昌詩』の漢詩は「一首ごとに詩話を添え、地誌と考証随筆をかねた内容になっている」とあるように、それに続く漢文がおもしろく、本来セットで味わいたいもの。これは漢文を読み慣れていない人には辛いものがありそう……。

 そこで『金峯絶句類選』から大坂を読んだ漢詩を拾ってみた。拾ってみたというか、金峰は北久宝寺坊第三街生まれ、日常生活を詠んだ詩が自然と大坂の町を描いている。この『金峯絶句類選』は明治七年、父である田中華城によって出版された金峰の遺稿集で国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる。『大阪繁昌詩』所収、吉田藩 兵頭清生の「田中右馬三郎伝」によると、「著書に大阪繁昌詩三巻、雑体詩三巻、文一巻、金字編四巻、金匱要略正義一巻、及び漫録三巻がある」ということだから、収められている作品はここに記された雑体詩三巻の一部かもしれない。

 金峰の詩は夭折の天才少年のイメージにふさわしく、きらめく感性が感じられる。南宋の繊細な詩に似ていると思ったら、南宋詩の流行に大きく関わった江戸の江湖詩社がお好みだったようだ。都会の詩である。

 浪華橋納涼   浪華橋の納涼
城影浮波月影新 城影は波に浮かび月影は新たなり
萬燈連店傍江濱 万灯店を連ねて江浜に傍ふ
納涼翻作納炎地 納涼翻って納炎の地と作る
鬧熱浪華橋上人 鬧熱す浪華橋上の人

浪華橋は天満橋、天神橋と合わせて大阪の三大橋、ライオン橋と言った方がわかりやすいかもしれない。江戸時代、浪華橋は夕涼みの人々でたいそう賑わったそうだ。「納涼翻って納炎の地と作る」人々の熱気で暑くて涼むどころか、と金峰は詠んでいる。そういえば昭和一桁生まれの私の両親は、夏の暑い時期、夕食後から床に就くまでの間は夕涼みをしていたと話していた。「テレビもなかったし暇やったんや、暇でしゃーないから四つ辻に出てどれだけ大きい石持ち上げられるかてしてたなあ」――父よそこは家で書物でも読んでいてほしかった。

話を戻して「城影は波に浮かび月影は新たなり」の「城影」は何か。「城春にして草木深し」(杜甫「春望」)のように漢文では「城」は町の意味になることが多いが、もちろん「白帝城高くして暮砧急なり」(杜甫「秋興八首」)のように「城」の意味になることもある。前者なら川面の波に映っているのは大坂の町並み、後者なら大阪城ということになるが、浪華橋から大阪城が川面に映って見えるのだろうか?

 『摂津名所図会大成』巻之十三上難波橋には

橋は百丈にして水ゆるく流れ、日は金城の上に出て影孤舟を沈む。諺に此所浪花第一の美景といへるもよろしきに似たり 

と「金城」という語がある。そして後藤松陰の詩にもこの「金城」が用いられている。

泉巒河嶺雪光寒 泉巒河嶺雪光寒し
來映金城辨得難 来たり映す金城弁じ得難し
誰人能喚猿郞起 誰が人か能く猿郎を喚び起こし
把這銀山粉壁看 這の銀山粉壁を把りて看せん

これは間違いなく大阪城だろう。「誰が人か能く猿郎を喚び起こし」(!)、「猿郎」とあるのだもの。四天王寺五重塔玉江橋の辺りでも見えたそうだから、大阪城も見えたのだろうなあ。

 橋といえばもう一つ、今はない四ツ橋を詠んだ詩。

過四橋聞歌者戲賦一詩呈從行諸君
 四橋を過ぎ歌う者を聞く。戯れに一詩を賦して従行の諸君に呈す
煙管商家對水前 煙管の商家水前に対す
按歌聲在木欄邊 歌を按ずる声は木欄の辺に在り
他年須記浪華夢 他年須く記すべし浪華の夢
井字橋邊川字絃 井字の橋辺川字の絃 

「歌を按ずる声は木欄の辺に在り」というのは川沿いの店から聞こえてくるのだろうか。それとも酔って欄干に寄りかかって歌っているのだろうか。ほてった顔に川面を渡る風は心地よさそうだ。「井字の橋辺川字の絃」の「井字の橋」は四ツ橋、「川字の絃」は三味線だろう。「煙管の商家水前に対す」というのは四ツ橋に煙管の店があったことを詠んでいる。『摂津名所図会』巻四下四ツ橋につぎのようにある。

西横堀に上繋橋・下繋橋、長堀に吉野屋橋・炭屋橋あり。これを合て四ツ橋といふ。二流十文字になりて橋を四方に架すなり。四ツの橋の行人、漕ぎわたる船の往来もたえ間なくして風景斜ならず。ここに源蔵張とて、煙管の店あり。世に名高し。四ツ橋を以て煙管の銘とするなり。 

たばこと塩の博物館あたりに行けば往年の四ツ橋の煙管が見られるかもと思っていたところ、受講生の方がスマホで検索してくださって、ヤフオク四ツ橋の銘のある煙管が出品されているのを発見。コレクターがいるのだろうか、煙管の世界も奥が深いようだ。