「漢文」は「国語」ですが?

「漢文」なんか要らないという、こういう商売してると馴染みの話題がまたTwitterのタイムラインに流れてきた。今回は漢文クラスタの間だけではなく広い範囲でバズったようだ。たぶん、発言主が有名人であるのと、古典不要論が話題になっていることに関連させて受け取った人が多かったからだろう。

 

さて「漢文」なんか要らないと言うとき、その「漢文」が指すものには次の2つの場合があるようだ。

 1学校で学ぶ科目としての漢文

 2漢文訓読という技術

この2つが絡み合って話をややこしくしているので、今回はできるだけ1に絞って書きたい。

 

学校で学ぶ科目の場合、「漢文」に限らずあらゆる科目が要らないと言われる憂き目に遭っている。授業がわからなかった、退屈だった、先生が嫌いだった、卒業してから役立ったことなどない……などという批判をよく目にするが、そのような批判はすべての科目に共通するものだ。

生徒にそのような思いを抱かせないために教育現場で工夫や努力が必要なケースもあるのかもしれないが、そのことはその科目が要らないという直接の根拠にはなっていない。

 

漢文が要らないという根拠になりそうなこととしては、中国語で学ぶべきだという(これは「2漢文訓読という技術」に関わってくる)主張である。

しかしそれでは「国語」として学ぶことができない。「中国語」や「中国古典」という教科を新たに作ることになるが、そうなると中高生の負担は非常に大きくなるだろう。「中国古典」要らない、どうして外国の古典を学ばねばならないのかと言う声が上がるのは間違いない。私も日本の中高生がどうして外国語をもう一つ学んでまで白楽天を読まねばならないのかわからない。ゲーテでもシェイクスピアでもわからない。中にはその科目が好きになる生徒もいるかもしれないが。

要するに、漢文が要らないと言う人は、勉強しないといけない科目を1つでも減らしたい、それだけのことではないのか。その理由として役に立たないからなどと言っているだけなのだ。この「役に立たない」というのはあらゆる科目に当てはまる、魔法のようで雑な“いちゃもん”である。私もこれまでの人生で跳び箱や逆上がりが必要だったことは一度もない。役に立っていないので体育の授業はなくしてほしい。

 

TLを追えていないので既にどなたかが書いておられるのではないかと思うが、そもそも「漢文」なんか要らないという人の多くは、それが「国語」という教科に含まれていることを忘れているのではないか。学習指導要領の第1節 国語:文部科学省 を見ると、漢文は古文とセットになっていることがわかる。そもそも中学高校では漢文を中国古典ではなく日本語として学んでいるのである。日本人の書いた漢文だって学ぶことになっている。どうして中国の古典を中国語ではなく漢文訓読で学ばねばならないのかと言う人は、一度、学習指導要領を見てほしい。

漢文という科目が日本の学校教育に存在するのは、それが日本語だからである。日本語を理解するためには和文脈と漢文脈の両輪が必要だからである。漢文が必要なのは古文が必要だということと同じ理由であり、国語という教科が必要だということと同じである。このあたり話が長くなるし、昔からさまざまな人が言及しているので今は省く。とりあえず「漢文」が要らないというなら同じ日本の古典である「古文」とセットで主張してくれないと困る。

 

漢文のテキストは中国の古典であるが、同時に日本語の一部なのである。「漢文」では日本人が書いた作品も学ぶことになっているが、これは日本の古典である。「漢文」の授業では「先則制人」を「xiānjízhìrén」と読まないで「先んずれば則ち人を制す」と読む。日本語には「xiānjízhìrén」ではなく「先んずれば則ち人を制す」という形で取り入れられているからである。国語という科目が必要である限り、教科としての漢文は必要である。