地域の文学として 漢詩を取り戻すために
*この文章は、日曜日の講座でお話した内容の一部です。
役に立たないと叩かれっぱなしの古典文学ですが、まちおこしでは大活躍しています。作家に縁のある土地で記念館があったり、文学作品の舞台として“聖地巡礼”するファンがいたり。関西にはそういう古典文学にまつわる地域がたくさんあります。文学を用いたまちおこしに、ぜひ漢文も加えてほしいのです。
例えば地域の歴史を紹介するときに、名所図会の挿絵が用いられることがよくありますが、そこに書き込まれている文学作品にはあまり注意が払われていません。これが漢詩だったりするとほとんど無視されています。それはもったいないと思うのです。
漢詩を地域の文学として蘇らせるには、研究者と地元の人の連携が必要だと思います。
もし史料(漢詩の場合は詩稿など)が残っていたら、調査をします。これは研究者の仕事です。史料の調査には専門的な知識や技術が必要だからです。史料の扱いは慎重にしなければいけません。公開となるとなおさらです。こういったことは、研究者倫理が問われる仕事です。
研究者は、その地域にまつわる漢詩について、文学史的にどういう意味があるのか、作品としてどのような価値があるのか、どういう社会情勢を背景に生まれたかなどを考察し、判断します。研究者仲間と情報交換し、学会発表をしたり論文を書いたりして、文学史の中に位置づけます。
私はここまでが研究者の仕事だと考えています。研究者がするのは、いわば宅地造成・区画整理です。一つ済んだら次の地域を開拓しにいかなければなりません。
宅地造成が済んだ区画に家を建てて町を作りあげるのは、地元の人たちの仕事です。
地元の人には、地元にまつわる漢詩を
- 読んで、
- 使って、
- 伝えて
いってほしいのです。
地域の文学として漢詩を取り戻すためには、
- 作品の選択
- 作品の普及
この2つが重要な鍵になります。
作品の選択については、普遍の価値を持つものを選ぶことが大切になってくるでしょう。
明治以降の漢詩の場合、戦争を礼賛する作品、戦意を高揚させるものがたくさんあります。これらは歴史史料としては重要ですが、地域の文学として伝えていく際には、わざわざ選ぶ必要はないでしょう。
戦争に関連して、朝鮮半島・台湾・沖縄の人々に対して、現代では到底受け入れることのできない表現が出てきます。女性に対する姿勢も同様です。現代の価値観と異なるものをわざわざ引っ張り出してくる必要はありません。
つぎは、そうして選んだ作品を広めていきます。たいていの場合、著作権は切れているでしょうから、使い勝手は良いと言えます。みやげものを作るなり、ゆるキャラを作るなり、さまざまな形で親しんでもらえるでしょう。ただ、なんでもやっていいかというと、作者と作品に対する敬意というものは忘れてはならないと思います。御子孫がいらっしゃる場合もあるでしょうから、じゅうぶん気を配ってください。
作品を広めていくのにネックになるのは、漢文に親しんでいる人が少ないことです。そのため、注釈・現代語訳は必要になるでしょう。これは、ぜひ地元の方たちで取り組んでほしいと思います。一生の、やりがいのある仕事になることを保証します。
注釈・現代語訳は必要ですが、それだけでは子供や漢文に興味のない人の心には届きにくいことでしょう。そこで、一つの案として、短歌や俳句や現代詩に翻案することが考えられます。これは江戸時代の人も、俳句を七言絶句に翻案したり、同じテーマで和歌と漢詩を詠んだりして楽しんだものです。地元の短歌や俳句のサークルの方たちも一緒になって取り組んでもらえたら素晴らしいと思います。文学作品にとどまらず、漢詩をイメージした絵画などもいいですね。
私は、退職後に文芸を楽しんでいるような方が、地域の漢詩人の作品を広めてくれたらと思っています。短歌や俳句を詠む方にも、漢詩の勉強は言葉の世界を広げる上で役に立つことでしょう。やりがいのある、大きな仕事だと思います。
また、地域の学校の先生方には、総合的な学習の時間に地元の漢詩人をぜひ取りあげていただきたいと思います。
*講座では、このあと地域の漢詩人の作品から読み継がれていってほしい作品を紹介しました。