阪大短歌会(大阪大学短歌会)のこと

若い人の間で短歌がブームだそうで、あちこちの大学に大学短歌会が生まれている。大阪大学阪大短歌会(大阪大学短歌会)について私の知っていることを書いておこうと思う。
 
 
2015年に「革靴とスニーカー」で角川短歌賞を受賞した鈴木加成太氏は大阪大学短歌会の会員だ。
 
公式サイトによると大阪大学短歌会は2010年12月に発足したということだが、実は“大阪大学短歌会”は近年できたものではなく、古い歴史がある。現在の大阪大学短歌会は、かつて大阪大学短歌会が存在したことを知らない人たちによって創設されたのである(確認済み)。
とはいえ、私も大阪大学短歌会(以下「短歌会」)がいつ創設されたのかなど、詳しい経緯は知らない。この記事は自分の覚え書きであるが、どなたかの目に留まって情報が寄せられることも願って書いている。
 
私が初めて短歌会のことを知ったのは1984年である。山口堯二先生と島津忠夫先生がいらして、源氏物語や和歌を専攻する学生が格調高い歌を詠んでいた。私の記憶違いでなければ(私自身は面識のない)田中裕先生も短歌会に関わっておられたと聞いたので、設立の時期はかなり溯るだろう。国文学専攻の学生が、実作を通じて学問を深めるために集う会という印象があった。
短歌会の古風で雅な歌風は、80年代前半に島津忠夫先生を慕うやんちゃな学生が大勢参加したことで、終焉を迎えることになる。『サラダ記念日』がベストセラーとなり、口語体短歌が一気に広まった時期である。島津先生は「俵万智は短歌をわかってああ詠んでるけど、みんなの歌は滅茶苦茶や」と仰っていた。短歌会の歌風は80年代に格調派から滅茶苦茶派に変化したのである。山口先生が次第にお見えにならなくなったのを、私は島津先生と交代されたのだと理解していたが、あまりの滅茶苦茶な歌風に耐えられなくなってしまわれたのかもしれない。
 
 
『サラダ記念日』みたいと言われるのが嫌で意地になって読んでいなかったが、今年2月にKindleで購入。いまなら先生の仰っていたことが理解できる(遅すぎ)。
 
短歌会は月1回、池田の文化会館などで行われた。各自2首提出し、担当者が無記名で詠草集を作る。会場で詠草集を見て投票し、票数の多いものから投票した人が投票理由などを話し、島津先生の解説、作者が名乗り出るという方法で行われた。
メンバーはほとんど国文学専攻の学部生と院生だったが、人間科学部と工学部からも1名ずつ参加者がいた。
島津先生は日本歌人に所属しておられたので、日本歌人からHさんがよく加わられた。もう一人、Hさんと一緒に日本歌人の男性が何度か来られた。また一度、Hさんが“塚本邦雄隠し球”だという同年代くらいの男性を連れてこられたこともあった。Hさん以外は名前を覚えていない。若い方の男性が暑い日でもロングコートを着ていたのだけは覚えている。
短歌会からはたしか早世されたKさんが日本歌人に参加しておられたと思う(私も声をかけて頂いたことがあるが、アルバイトと奨学金で大学に通っていたので短歌結社に参加する時間的・経済的余裕がなかった。当時はそのうち就職して余裕ができたらとも思っていて、まさかこの年になってもあの頃と同じくらいか、あの頃以上に時間的・経済的余裕がない人生を送っているとは思わなかった)。
いま思うと、私たちの滅茶苦茶な短歌について、島津先生が和歌史と現代短歌の知識を踏まえて批評してくださるという、目眩がするような贅沢な体験を毎月していたわけである。
 
あのころ参加者の中には短歌会そのものより終了後の飲み会を楽しみにしていた者もいたのではないだろうか。私たちのいきつけは阪大坂の途中にできた、今はなき「すしよし」だった。島津先生が吉四六をボトルキープしておられ、まずビールで乾杯して焼酎という流れだった。
 
私はここで初めて、当時まだ珍しかったカリフォルニアロールを食べた。毎回必ず注文したが、食べられないことも多かった。アボカドが簡単には手に入らない時代だったのだ。
飲み会が盛り上がってくると、すしよしの主人は毎回「カラオケあります」と言って寿司桶を見せるという寒いギャグを飛ばし、酔いが回っている者は大笑いし、まだ酔っていない者は苦笑するのだった。
 
年に1回、短歌会の会員の詠草をまとめた小冊子を出した。『風輪』というタイトルだった。これを見れば短歌会のことがもっといろいろわかると思うのだが、黒歴史としてどこかに封印したまま見つからない(見つけたら加筆します)。
 
島津先生が退官され武庫川女子大学に移られたころからは、天野文雄先生も来て下さっていた。90年代に入ると私は何故か短歌が詠めなくなり、短歌会からも次第に足が遠のいてしまった上、93年に出産して外出がままならなくなったので、このころからの短歌会の情報が途絶えている。
大阪大学短歌会”がいつ活動休止状態になったのかわからないが、私たちの世代にあまりにも強烈なメンバーが多かったため、上手く後輩が続かなかったのだろうと、さまざまなことが思い出される。
 
島津忠夫先生の晩年、同窓会のように年に数回短歌会を開いていた。自分たちとは別に“大阪大学短歌会”が存在することを知り、この集まりを“風輪会”と呼ぶことにした。命名は、島津先生による。