佃一輝『茶と日本人―二つの茶文化とこの国のかたち』

初めてお茶会に参加して文人茶の世界に触れたとき、これまで自分の愛して親しんできたものが1つに束ねられるような感覚があった。漢詩文の世界と書や文人画から、生活を彩るというよりもはや美術品の域にある食器や文房具、家具や花、料理や着物まで、バラバラに楽しんでいたすべてが、煎茶を通して見ると1つの世界として存在するのだった。

一般の人は茶と言えば佗茶の茶道をイメージすると思う。しかし、本書の副題にあるように茶文化は茶道と文人茶の2つで成り立っている。茶道の型を重んじる姿勢や権威主義を苦手とする人は(私の周りには)多いが、そういう人はぜひ自娯の茶である文人茶について知ってほしいと思う。本書の第3章は佗茶の茶事と文人茶の文会がどのように行われるのか、それぞれ対比して説明されている。実際に参加しているかのように詳しく書かれているが、欲を言えば挿絵や写真があれば詳しくない読者にもわかりやすいと思った。

茶道に関心のある読者の他にも、近世文学に興味のある向きには、茶道と文人茶の文脈で徂徠学と陽明学を取り上げているところや、老荘思想の流行、畸人という概念と茶の関係など、示唆に富む部分が多いと思う。

上田秋成『清風瑣言』の村瀬栲亭序には「点ずるは賢たり、煎ずるは聖たり」とある。点は抹茶、煎は煎茶であるから、それぞれ茶道、文人茶を指す。本書によれば、利休という権威を手本として稽古修行する茶道は、朱子学で聖人を目指す賢人に相当する。対して文人茶は陽明学でいう、人が皆生まれながら備えている聖人の資質を茶が覚醒するのだと説くところは、なるほどと思わせる。この陽明学的発想が商人の人格形成に自信を与え、知的な文人を輩出することに繋がったというくだりは、そういった町人の詩会や塾に煎茶があったことを想像させる。

一つ付け加えるなら、本書では指摘されていないが「点ずるは賢たり、煎ずるは聖たり」の「賢」「聖」には濁り酒を賢人、清酒を聖人という隠語のイメージもあるのではないだろうか。抹茶と煎茶の液体としての状態を酒に当てはめると、それぞれ濁り酒と清酒になるからである。