揖斐高『江戸漢詩の情景――風雅と日常』

睡眠不足のぼーっとした頭で『雅俗』21号を読んでいると、「名著巡礼」で山本嘉孝氏が中村真一郎『江戸漢詩』を取り上げている中に私の名前が出てきて一瞬で目が覚めた。『江戸漢詩』は、大学卒業後ふつうにOL(死語…)になって3年くらい勤めて寿退職(死語…)しようっと ♪ などと思っていた私の進路を変えた本だ。そのことをあちこちでしゃべっていたので、ついにこういう目に遭ったのである。

これまで、江戸時代の漢詩に興味を持った人に勧める最初の1冊といえば中村真一郎『江戸漢詩』だった。1985年に「古典を読む」というシリーズで出版され、1998年には同時代ライブラリーに収録された。作品の魅力だけではなく、人間としての詩人たちが生き生きと描かれ、現在でも価値を失っていないと思う。

残念なのは同時代ライブラリーの方も絶版になってしまっていることだ。それでも興味のある人は手に入れるだろうけれど、長年、興味のない人にも届く本があればと思っていた。買いやすい値段の新書で、新しく書くなら、その書き手は……

本書はそういうイメージ通りの本だ。江戸漢詩そのものに興味はないが歴史や文学に興味がある読者が手に取りやすくなっている。京都を表す四字熟語、山紫水明について語るなら必読の「山紫水明」、凧の文化史といえそうな「凧の揚がる空」、林羅山石川丈山に倣って詩仙堂を営んでいたという「もう一つの詩仙堂」などなど、特に漢詩に興味がなくても読んでみたくなる内容で構成されている。

揖斐高氏と言えば江戸漢詩の中でも特に柏木如亭研究で知られているが、「西施乳と太真乳」では如亭の『詩本草』も取り上げている。言うまでもないが西施は越王勾践が呉王夫差に贈った女性、太真は楊貴妃のことである。河豚は一名「西施乳」といい、牡蠣は「太真乳」というが、本書は「太真乳」という艶称については如亭が新たに思いついたものではないかと述べている。

ここで学恩に報いるため1つ指摘しておくとすれば、「太真乳」という言葉は『閩小記』に巻2虎蟳にある。如亭は『閩小記』を読んでいたのではないだろうか。

「西施舌」 畫家有神品、能品、逸品,閩中海錯,西施舌當列神品,蠣房能品,江瑤柱逸品。西施舌以色勝香勝,當並昌國海棠。礪房以豐姿,勝並牡丹。江瑤柱以冷逸,勝並梅。西施舌既西之舌之矣,礪房其太真之乳乎,圓真雞頭,嫩滑欲過塞上酥。江瑤柱產氵亟江,癖梅妃子亦生其地…

「礪房は其れ太真の乳」とある。『詩本草』もまた「西施乳」の他に「西施舌」「江瑶柱」を取り上げており、影響関係が窺える。

中村真一郎『江戸漢詩』は一般の人も楽しめる読み物であったと同時に、研究者にとって多くの論文のヒントに溢れていた。本書も同様に、江戸漢詩の研究者を刺激するヒントに溢れている。ひとまずどなたか、「太真乳」について調べてください……

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