特任教員(1年だけ)になりました

任期は1年だけですが、10月1日付けで特任教員になりました。新学期の1週目が終わったところです。

これまでの非常勤先(後期の非常勤は徐々に減って6コマになっていました)には年度途中でご迷惑をおかけすることになってしまったのですが、就職が決まったことを報告すると、それぞれ

  • 契約終了
  • 曜日などを出講できるよう変更
  • 集中講義に変更

となりました。任期は1年だけなので、科研費を管理してもらっている非常勤先は死守しました。

1年の任期が終わったあと非常勤のコマ数が回復するとも思えないので、これまでと同じく慎ましく暮らして貯金するつもりです。なので生活はあまり変わらないと思います。

とはいえ、専業非常勤講師の暮らしが長すぎて既にカルチャーショックの毎日です。

大学の居心地はとてもいいです。子供の頃からの友人に大学名を伝えたら「えっ! ぴったりやん!」と言われました。

揖斐高『頼山陽――詩魂と史眼』

揖斐高『頼山陽――詩魂と史眼』は頼山陽に興味を持った人に、はじめの一冊として勧められる本だ。

これまでは、初めの一冊としては中村真一郎の『頼山陽とその時代(上)(下)』を勧めていた。言わずと知れた名著である。一時期は手に入れにくかったが、ちくま学芸文庫に収録され、Kindleもある。

しかし、『頼山陽とその時代』はかなりボリュームのある本なので、ちょっと興味を持ったという人に勧めるには気が引ける。せっかくの興味の芽を摘む虞がある。

また、出版当時と現代とでは感覚が違っている部分がある。『頼山陽とその時代』は山陽の若き日の出奔について、心の病に原因を求めた点が画期的であった。当時は心の病に対する話題がまだまだタブーであったが、それゆえの表現が現在の若い読者には違和感となるところがあると思う。

頼山陽とその時代』が今でも読まれるべき名著であることは間違いないが、このような理由でもう少し読みやすい本がないかと長年思っていたのである。

ネット上では四季・コギト・詩集ホームぺージに本書について詳細に記されている。

shiki-cogito.net

これを読んだ瞬間、あ、もう私が書くことないわと思ったのだが、以下に覚え書きをメモ程度に記しておきたい。

本書は第Ⅰ部で山陽の生涯について、第Ⅱ部でその詩と学問について述べている。第Ⅰ部は晩年までで、死後については第Ⅲ部という構成になっている。

第Ⅰ部は新書のこの分量で山陽像を描ききっていて楽しい。一言で言うと難儀な人である。しかし才はあるしどこか憎めないため味方もできて、世間から切り捨てられない人柄。難儀なエピソードの数々は是非本書をお読みください。こういうタイプの男性に引っかかる女性は現在もいるが、そのあたりも是非本書をお読みください。

第Ⅱ部の詩については、入門書としては現代語訳もあった方がよかったと思う。歴史学については、このまま幕末まで長生きしていればどうなっていただろうと思いながら読んだ。

そして第Ⅲ部は情けないゴタゴタがあって読むのがつらい。

巻末には系図と略年譜、詳しい参考文献案内もあって、研究者にも役立つ。

 

広島藩の藩儒であり厳格な人柄で知られる父春水と、大坂の立売堀で裕福に育った明るい母梅颸という、相反する二人を両親に持つ山陽は、厳格な父とイタリア出身の芸術を愛する母を持つトーマス・マンの小説の主人公、トニオ・クレーゲルを思い起こさせる。父に対する複雑な思いと、母に対するストレートな思慕は山陽の生涯にわたって影響していると思う。

茶山の書翰の「年すでに三十一、すこし流行におくれたをのこ、廿(はたち)前後の人のさまに候。はやく年よれかしと存じ奉り候事に候」(22~23頁)というところ、山陽をよく捉えているのだろうなと面白い。「流行におくれた」というのは、ファッションに疎いというのではなく、世の中からズレているという意味だろう。

春水には藩の事業として史書を叙述したいという志があったが挫折した。山陽にはこのことに触れた書翰があり、本書では

日本外史』とは別に、「中絶」した父の志を継いで、「編年の史」を「成就」したいという。山陽にとって『日本政記』の著述は挫折した父の志を継ぐ事業であり、迷惑をかけた父への償罪としての意味も有していたのである。(132頁)

と指摘する。

脱藩という罪を犯した山陽は、罪せられて死に値する立場である。にもかかわらず、幽閉ののち史書を記すことで再生を計った。本書には記されていないが、山陽は、宮刑という恥辱にまみれても、生きて父の遺言である史書を記すことを選んだ司馬遷を意識していたのではないだろうか。

難儀な人だが家計のことなど意外にしっかりと管理していたようで、稼いだ金は門人や知人に預けて運用させ、利息を得ていたという(64頁)。窮死した柏木如亭のことなどが影響しているのかもしれないし、大坂の母方の知恵かもしれない。お金はだいじである。

山陽の死後、妻梨影が書いた手紙の「此方主人事、人なみの人とはちがひ候ゆへ」「あのくらいな人をおつとにもち、其の所存なか/\でけぬ事と有りがたく存じ候」(247~248頁)というくだりなど心に染み、誰かを支える人生も、支える誰かによって充実するものだと教えられた。

www.iwanami.co.jp

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俵万智『アボカドの種』

『アボカドの種』の読書会で話したこと、気づいたこと、話し足りなかったことを書いておきます。Amazonのリンクはアフィリエイトです、念のため。)

 

『アボカドの種』はAIも短歌を詠める時代における歌人の存在意義を高らかに宣言した歌集として、歌壇史に位置づけられると思う。朝日新聞社メディア研究開発センター員の浦川通氏が俵万智の歌集を学習させた「万智さんAI」を作ったのは記憶に新しい。また、俵万智自身、本書のあとがきで「一首一首、自分の目で世界を見るところから、歌を生む。言葉から言葉をつむぐだけなら、たとえばAIにだってできるだろう。心から言葉をつむぐとき、歌は命を持つのだと感じる。」とAIに触れている。

言葉から言葉つむがずテーブルにアボカドの種芽吹くのを待つ

という一首は、あとがきを踏まえて読むと、人が歌を詠むのはAIのように「言葉から言葉をつむぐだけ」ではなく、「心から言葉をつむぐ」と言っているのだということだとわかる。

この一首の前にある次の歌もあとがきに引用されており、「言葉から言葉をつむぐ」という表現が、陶芸家の富本憲吉の「模様より模様を造る」という言葉から生まれた(つむがれた!)ものであることを明らかにしている。

「模様より模様を造るべからず」富本憲吉

二十年ぶりに心に浮かびくる言葉の意味を考えている

ところで、『アボカドの』というタイトルは明らかに古今集仮名序の

やまと歌は、人の心をとして、よろづの言の葉とぞなれりける。

を意識しているもので、AIが短歌を詠める時代に俵万智は仮名序という原点に立ち返っているのである。

『アボカドの種』は和歌・短歌の原点に立ち返ると同時に、読書会でも指摘があったように、アボカドサラダを詠むことで『サラダ記念日』で有名になった歌人俵万智の原点にも立ち返っている。この一巡りして原点に立ち返るイメージは、作者の年齢である還暦にも重ね合わされている。

連作ひとつずつの構成の妙と共に、一冊の歌集としての構成も考え尽くされていることに、読書会で話しているうちに気づかされた。息子の巣立ちや老いていく親などのいくつかのテーマを、芽吹いて成長していくアボカドとその連想のように葉を茂らせていく長命草の歌で繋いでいて、一冊の歌集としての統一感を生み出している。芽吹いて葉を茂らせていくアボカドは、

実をつけることを忘れて伸びてゆくアボカドのごとくあれ高校生(真夏のマスク)

などの歌にあるように息子の成長と重ね合わせられているのと同時に、言の葉を表しているのである。

 

「折り紙に『いそがしきもちふとばせ」と書いてくれたね、やっちゃんおらず」(島へ)という歌の「いそがしきもちふとばせ」がわからなかった。俵万智の他の歌集を読んでいればわかるのかもしれない。

 

読書会、楽しかったし勉強になったし忙しい生活の中で読む気力を保つのにとてもいい! 歌集だけでなく古典や研究書でもあればいいな。

中島和歌子『陰陽師の平安時代-貴族たちの不安解消と招福-』

大河ドラマ「光る君へ」に安倍晴明が登場するからか、陰陽師に対する関心がまた高まっているようだ。陰陽師に関する書籍のうち、『御堂関白記』『紫式部日記』など「光る君へ」の視聴者には馴染みのある書物が登場する本書はタイムリーな出版といえる。

文学作品がふんだんに引用されていること、陰陽師を利用する側(貴族)からの記述が多いことから、平安文学を学ぶ人が陰陽師に関する知識を得るのには本書がよいと思った。

www.yoshikawa-k.co.jp

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安倍晴明については、ドラマでも「はるあきら」と読まれていたかと思うが、「はるあき」(9頁)だということを始めとして、現在のイメージと実像とがかなり違うことがわかる。私は近世文学専攻なので、安倍晴明といえば葛の葉、既に実像とかけ離れている……

安倍晴明がドラマで道長の前で行っていた反閇についても詳しく説明されている(177頁)。

 

以下とりとめもないことを書き留めておく。

  • 「おんみゃうじ」は中世以降、平安は「おむやう」(3頁)。
  • 怪異の例として、勧学院の竈にキノコが生えたこととある。ちょっと笑ってしまった(68頁)。
  • 六壬式盤についても詳しく説明されていて使ってみたくなった(70頁)。
  • もののけ」の表記は「物の気」(『貞信公記』『今昔物語』『平家物語』)だが、『湖月抄』傍注にすでに「物の怪」がある。平安時代を扱う際には「物の気」にするべき(107頁~)。
  • 「土公神」の「土公」の読みは『倭名類聚抄』などから「どくう」(133頁)。
  • 「禹歩」は『貞丈雑記』に「ウフ」とルビがある(179頁)。
  • 『口遊』に百鬼夜行の日に夜行するとき唱える歌は「堅磐(かたしわ)や我(わ)がせせくりに醸(か)める酒(さけ)手酔(え)ひ足酔ひ我(われ)酔ひにたり」(224頁)。
  • 30頁11行目、「金は木に剋つ」が抜けているようだ。

私のSNSに辿りついた学生さんへ

新年度が始まりました!

今年度前期は2つの大学と2つの専門学校(4クラス)で授業を担当しています。

いまどきの学生さんは、担当者の名前をネットで検索することも多いでしょう。研究者がどのような仕事をしているのかについては、researchmapを見るのがよいと思います。

researchmap.jp

授業担当者のSNSを見つけてフォローしている人もいるかと思いますが、私に関してはその必要はまったくありません。有益な情報は少ないですし、授業担当者のSNSを見ている方が評価で有利になるのはよくないと考えています。

通常の設定のSNSは授業で使うには向いていません。発信する情報が確実に届くとは限らないからです。私のアカウントは名前がわかるようになっていますが、学生の皆さんのほとんどはアカウントで本名を使っていないでしょう。受講生だと気付かずブロックすると、その人には情報が届かないということが起きます。

SNSを見なくても安心してください。授業に関係があること、特に成績評価に影響することについては、かならず受講生の皆さんにお伝えします。SNSのポストにしか情報がないということはしません。授業中に伝えるだけでなく、ちょっとしたことでもLMS(GoogleClassroomのストリームやWebClassのタイムライン)に投稿します。そのため、少々ウザいかもしれませんが、気になる人はチェックしてください。LMSのない専門学校に関しては、授業中に対面で伝えます。

また、これは当然ですが、レポートなどを担当者の考えや好みに合うように書く必要は一切ありません。レポートに必要なのは阿ることではなく、自分の意見を論理的にしっかり書くことです。まともな担当者なら、自分の考えや好みに合わないという理由で減点をすることはないので、評価が良くなることを目的に担当者の考えや好みをリサーチする必要はありません。

 

 

少し話はそれますが、私はSNSは多くの時間を費やすようなものではないと思っています。SNSで小さな承認欲求を満たすことに多くの時間を費やすよりは、大きな目標に向けて時間を費やす方が後悔のない人生を送れると思っています。受講生の皆さんも、小さな承認欲求の魔力に捕らわれそうになったら、アプリ使用時間の制限を設定するのをお勧めします。

「鯛の鯛」の短歌

角川『短歌』9月号第557回角川歌壇にメバルの「鯛の鯛」について詠んだ歌が載っていた。

メバルにも「鯛の鯛」あることを知り煮付けの鰭の奧処をほぐす

新潟県 柳村光寛

辰巳泰子選では特選、生沼義朗選でも佳作の一首目にある。

特選の選後評には

骨までしゃぶって平らげたい、深く知りたいというマニアックな愛。古語「おくが」も、よく収まっている。

とある。

鯛の鯛」とは、エラの奥にある魚の形をした骨である。Wikipediaによると「硬骨魚の肩帯の骨の一部であり、肩甲骨と烏口骨が繋がった状態のもの」で「基本的にほとんどの硬骨魚に存在する」。肩甲骨が魚の形の頭の部分で、ここにある穴が、ちょうど魚の目のように見える。焼き魚より、身がほろほろと離れてくれる煮付けの方が比較的とりやすいが、肩甲骨と烏口骨の部分が外れやすく、鯛の形を保ったまま取るのは難しい。それだけに、取れたときはうれしい。縁起物として集める人もいるらしい。

ところで、作者は「メバルにも『鯛の鯛』あることを知り」と詠んでいるが、いつどこで知ったのだろうか。5ヶ月前の『短歌』4月号第552回角川歌壇、小黒世茂選の特選に

鯛の鯛めばるのめばる幸運に変わりはあらず一人の食事

兵庫県 桝田法子

という歌がある(桝田法子というのは私が短歌を詠むときに使っている名前である)。角川歌壇では、投稿した作品が掲載されるのは4ヶ月後だ。時期的に、柳村光寛さんはこの拙詠を見たのではないだろうか。

私が詠んだ鯛の鯛、めばるのめばるという表現のバトンを、誰かが繋いでくれた――もしそうだとすると、こんなにうれしいことはない。こういうことは初めてで、「鯛の鯛……」は私にとって記念碑的な歌ということになる。

鯛の鯛」の歌は、もともと連作の最後の一首で、最初の一首は

青春と呼ばれる季節を見送りぬタケノコメバルの潤んだ瞳

なのだが、これはもちろん『おくのほそ道』の

行く春や鳥啼き魚の目は涙

という表現のバトンを受けて詠んだものである。

『短歌』9月号の久我田鶴子選の佳作の一首目には、同じ作者、柳村さんの

佐渡沖で一日メバル釣るわれは皺の奥まで早日焼けする

という歌があり、メバルは釣果だったことがわかる。釣りをする人なのだ。

文学作品、とりわけ韻文を読む楽しみとして、私は典拠というものを重視している。時空を越えて同じ表現が用いられることで、星座のように作品の世界が広がっていく楽しみ。遙かな時を経て古典から受け継がれているものもあれば、同時代に場所を越えて広がっていくものもある。鯛の鯛という表現が、阪神間のスーパーでタケノコメバルを買った私と、新潟で釣りを楽しむ作者を繋いでくれたのである。

(違っていたらどうしよう……)

 

↓袷を質に入れて初松魚を買うという表現の広がりを追った論文です

BAKER(佛教大学論文目録リポジトリ)詳細画面

 

漢文を翻刻するときに便利なサイト

翻刻してテキストを作るのはすべての基本。漢文は写本でも文字をあまり崩していないものが多いですが、それでも時間がかかります。ふだん翻刻するときにお世話になっているアプリやサイトの覚え書きです。「えっ、あれ使ってないの?」というのがあればぜひコメントください。

 

codh.rois.ac.jp

「みを」の登場で翻刻が劇的に捗るようになりました。得意不得意があるようで、近世の漢詩の詩稿の場合8割くらい読める一方、儒者の書簡はほぼ読めません。「みを」を頼らなくていいものでも、テキストに変換してもらって入力の手間を省いています。

 

uakms.github.io

旧字体に変換するサイトはいろいろありますが、私はこれを使っています。一人称の「余」も「餘」に変換されるなど、細かいところを確認する必要があります。

 

このあとは読めなかった文字一つ一つと向き合う時間です。

tosando.ptu.jp

漢詩の場合は韻や平仄から候補の文字が絞れます。韻や平仄を間違っている可能性もありますが。

 

masudanoriko.hatenadiary.com

書簡を読むときに使っている本を書いています。

 

kanji.club

〇へんに〇って何ていう漢字だったっけ……というときに、即出てくるので便利です。

 

glyphwiki.org

どうしてもこの字をパソコンで出すのは無理……と諦める前にここを見ます。

 

訓点や送り仮名を付けるのには、やっぱり一太郎が便利です。