含翠堂講座の記録

含翠堂講座は、昭和60年(1985)に含翠堂顕彰碑が建碑されたのをきっかけに、平野の町づくりを考える会によって開かれていたものです。会場は全興寺で会費は500円でした。錚錚たる顔ぶれの講師の方々を招きながら誰でもワンコインで気軽に聴講できたこの講座は、江戸時代の含翠堂が当時の一流の学者を平野郷に招いていたことを彷彿とさせるものでした。

まちづくりに携わっている人々によって、このような講座が行われていたことが忘れ去られないよう、日時とタイトル、講演者名を記しておきます。村田隆志氏による1985年から2000年の記録の転載で、元の記録には内容の要約などがあります。肩書きは原文のまま、当時のものです。

  1. 1985年5月5日「平野郷と含翠堂」大阪大学教授 脇田修氏、「含翠堂創設者、土橋友直」大阪市史編纂所長 藤本篤

  2. 1985年10月10日「旧平野郷の歴史的建造物」京都府立大学教授 林野全孝氏、「平野の歴史を生かす町づくり」COM計画研究所 高田昇

  3. 1986年5月5日「含翠堂では何を勉強していたか一江戸時代の民衆教育についてー」大阪大学名誉教授 梅渓昇

  4. 1986年10月10日「平野を掘る」大阪市文化財協会 鈴木秀典氏、「平野郷周辺の発掘調査」同 森毅

  5. 1987年5月5日「連歌のはなし」 大阪大学教授 島津忠夫氏、「連歌の作法」京都女子大教授 濱千代清

  6. 1987年10月10日「河内木綿と平野」東大阪市立郷土博物館 竹内晶子

  7. 1988年5月5日「江戸時代の飢饉救済―含翠堂と陽明学―」甲南大学教授 宮城公子

  8. 1988年10月10日「色のいろいろ―染色技術史―」染色研究家 松村長二郎

  9. 1989年5月5日「大坂周辺の在郷町文化」大谷大学助教授 山中浩之

  10. 1989年10月10日「立版古―明治時代の子供の遊び―」関西大学教授 肥田浩三

  11. 1990年5月5日「私と含翠堂との関わり」日本学術会議会員 津田秀夫

  12. 1990年10月10日「熊野信仰と参詣道」和歌山大学教授 小山晴憲

  13. 1991年5月5日「伊藤仁斎と人の道」大阪大学教授 子安宣邦

  14. 1991年10月10日「号外の今昔」新聞文化資料館々長 中谷作次

  15.  1992年5月5日「藤澤東先生―『論語』解釈と徂徠学―」元青山短期大学教授 長谷川雅樹

  16. 1992年10月10日「芭蕉と大坂の町」武庫川女子大学教授 光田和伸

  17. 1993年5月5日「貝原益軒の学問と庶民の好学」 甲南大学教授 辻本雅史

  18. 1993年10月10日「幕末・明治の教育玩具―その放課後の楽しみ―」入江児童文化史研究所主宰 入江正彦

  19. 1994年5月5日「含翠堂と賑給」佛教大学教授 竹下喜久男

  20. 1994年10月10日「戦国・近世初期の平野郷」大阪大学名誉教授 脇田修

  21. 1995年5月5日「鎌倉時代と仏教」大阪大学助教授 平雅行

  22. 1995年10月10日「時の原点一人類の時との関わりの歴史ー」 時の資料館館長 後藤晶男

  23. 1996年5月5日「石田梅岩と大坂の心学」大谷大学助教授 山中浩之

  24. 1996年10月10日「石山合戦と東西分脈」大谷大学講師 上場顕雄

  25. 1997年5月5日「大阪天満宮と天神祭」夙川学院短期大学助教授・大阪天満宮史料室 高島幸次

  26. 1997年10月10日「大阪市史ものがたりー新修大阪市史編纂あれこれー」前大阪市史編纂所長 藤本篤

  27. 1998年5月5日「武士と学問、武士の学問」日本学術振興会特別研究員 宇野田尚哉

  28. 1998年10月10日「おもろい大阪辨―なにわ詞の特徴―」なにわことばのつどい代表 中井正明

  29. 1999年5月5日「梁川星巖と張紅蘭」帝塚山学院大学専任講師 福島理子

  30. 1999年10月10日「祭りの日のしつらいと、町家・町並み」奈良女子大学助教授 増井正哉

  31. 2000年5月5日「富永仲基の思想」京都産業大学日本文学研究所助教授 宮川康子

  32. 2000年10月9日 シンポジウム「おもろいで平野フォーラム」

含翠堂の狂詩を読む会のご報告

連休始めの3月20日に行なった杭全神社で含翠堂の狂詩を読む会、無事終了しました。

 

研究の成果を地元に還元しようと、商店街のうどん屋さんと鶏肉屋さんにチラシを貼らせていただき、お惣菜のお店、和菓子店、図書館、在宅サービスセンター、区役所にチラシを置かせていただきました。

杭全神社禰宜の藤江寛司さんには趣旨をご理解いただき、こころよく会場を使用させていただきました。

全興寺住職で平野の町づくりを考える会の川口良仁さんからは、平野の町づくりを考える会の沿革をレクチャーいただきました。

会場の杭全神社に隣接する平野小学校は私の母校です。もう実家もないですが、現在も平野に住んでいる同級生が、杭全神社への橋渡しをしてくれました。会の説明に行くべき所をリストアップ、一緒に回ってくれたばかりか、一人で追加のチラシを刷って配り歩いてくれました。

1月5日、12日、2月17日、18日と、平野郷を歩いて会の趣旨を説明して回りました。あちこちで地域の人たちの地元愛に圧倒されました。

 

当日の会場設営、受付、司会も、小学校の同級生たちが引き受けてくれました。これまでの経験でこういう会は30人集まれば大成功と思っていましたが、計40人、地元の人以外では大阪府内だけでなく滋賀県からも参加してくださいました。私の知人だけでなく、Xを見て来られたという方もいらっしゃいました。

 

前半の内容は、土橋友直の『宗信家君狂詩集』から、朝寝、煙草、蜜柑、猫の作品を通して300年前の平野の暮らしを読み、狂詩の応酬相手、囲碁仲間でもあった井上正臣と土橋宗信との繋がりについて説明しました。

 

後半は、含翠堂と炊き出しについてです。含翠堂に関しては、歴史研究の方々が既に地域で活動しておられますので、文学の視点から説明を加えました。含翠堂が飢饉の際に炊き出しをしたことも歴史研究でよく指摘されていますが、『宗信家君狂詩集』から当事者側の作品をピックアップして読みました。

 

終了後、いろいろな方とお話しました。地元以外の方が会の始まる前に町歩きを楽しんでくださったり、まち歩きガイド平野の風 の方が会の内容をさっそく役立てますと言ってくださったりしてうれしく思いました。 

平野に嫁いでこられた方が、含翠堂の炊き出しのエピソードにある気風を感じると話していたのが興味深かったです。

また、1985年から2016年にかけて含翠堂講座を企画運営されていた川口住職からも面白かったと言っていただき、胸を撫で下ろしました。

 

今回、たくさんの方にお越しいただき、楽しんでいただけたのは、地域の事情を知り抜いている小学校の同級生が手伝ってくださったからだと思います。ありがとうございます。

学問を学び、地域のために実践するという含翠堂の理念が、今後の町づくりに結びついたらこんなにうれしいことはありません。

 

心残りだったのは、狂詩に注釈と現代語訳を付けた小冊子を作って配布しようと思っていたのに、不明箇所が多く間に合わなかったことです。やはり狂詩の注釈は甘くなかったです。しかしこれは、来年度中に完成し、地域で活用してもらうつもりです。

20日杭全神社で狂詩を読みます

3月20日、大阪市平野区の杭全神社で狂詩を読むイベントをします。

そういえば漢詩って習ったな……という人にもわかるように話すつもりです。

平野郷を散策がてら、お気軽に覗いてください。

囲碁、猫、炊き出しー『宗信家君狂詩集』を読む

 

 

 

 

 

日本近世文学会の国際研究集会に参加しました

9月18日~20日*1にイギリスのケンブリッジ大学で行われた日本近世文学会の国際研究集会に参加しました。ラウラ・モレッティ先生はじめ関係者の皆さま、大変お世話になりました。

Home-Japanese – 日本近世文学会 国際研究集会 2025

University Library Workshop

私は18日のUniversity Library WorkshopのGroup3、4を担当し、Group1、2を担当した福島理子先生と共にケンブリッジ大学図書館が所蔵する漢籍をとりあげました。午前中に行われるGroup1、2と午後のGroup3、4の内容は統一しましたが、それぞれの興味の持ち方や参加者の反応で多少の違いはあったかもしれません。

取り上げた漢籍は、デジタルデータの活用という集会の趣旨に基づいてインターネット上で閲覧できるものとし、メインテーマが草双紙から絵入りの書籍であることから絵入りのものを優先して選びました。

しかし、私たちがWorkshopで中心に据えたのはインターネット上で公開されておらず、絵入りでもない、アーネスト・サトウの読書ノートです。図書館に収められているケンブリッジ漢籍はサトウやアストン、シーボルト等が幕末維新期の日本で漢籍をどのように受容していたかが反映されているからです。

また、サトウの読書ノートからは、彼がどのように日本語を修得し、漢籍を読んでいたかが伺えます。読書ノートによると、『日本外史』については、サトウは巻1を52日間で読んだあと、巻2は37日、巻3は34日と徐々に速度を上げています。巻4は途中で『江戸繁昌記』を読んでいたため78日かかっていますが、巻5はたった5日、巻6もたった6日で読み終えています。まさに驚異的なスピードです。

福島先生はノートでサトウが「蘇轍」や「韓魏公」の読みを中国語ではなく日本語で記していることに気付かれました。中国に滞在し、中国語を学んだサトウが中国語を用いていないのは興味深いことです。

また、私のワークショップの際にはマイケル・ワトソン先生がノートに「Ono-san」という語があるのに気付かれ、サトウの日本語学習に関わった人物ではないかと指摘されました。

サトウの語学の才能が突出していたことは確かですが、このノートを検証することで彼の語学学習の跡をたどることができそうです。実のところ私たちもこの貴重なノートを当日の朝になるまで見ることができず、『アーネスト・サトウの読書ノート : イギリス外交官の見た明治維新の舞台裏』という参考文献に頼っていました。デジタルアーカイブ化されて世界中の誰でもが閲覧できるようになることを願っています。

サトウの読書ノートに記された漢籍のうち、福島先生が興味を持たれたのは『日本外史』、私が興味を持ったのは『江戸繁昌記』でした。

読書ノートによると、サトウは『日本外史』という読み応えのある漢籍に取り組む合間に『江戸繁昌記』という軽い読み物を手にしたようで、こういった読み方は、漢文を学ぶ日本の知識人と同じでしょう。

ただ、サトウは『江戸繁昌記』については第1篇しか読んでおらず、このベストセラーに夢中になるということはありませんでした。『江戸繁昌記』にはじまる繁昌記ものは、日本の卑近なものを漢文で描写するギャップや、その際の戯訓に面白さがあります。しかし、駐日公使館に勤める知識人であるサトウには、日本の庶民の風習や文化が漢文で記される面白さが理解できなかったのかもしれません。また、歴史について学ぶために『日本外史』を読んでいたサトウにとって、『江戸繁昌記』は日本人の風習や文化を知る情報源に過ぎず、繁昌記ものというジャンルの面白さは不必要だったとも推測されます。サトウの読書はインテリの王道を行くものでした。

Workshopでは『江戸繁昌記』に記されている話題として、露天商が歌を唱いながら売っていた素朴な玩具を紹介しました。中国にも、正統な地誌とは別に人々の風習や文化を記した傍流の地誌が存在し、『江戸繁昌記』はそのような書物の影響を受けていると考えられます。ただ、中国ではそれらの書物があくまでも傍流であったのに対し、日本では『江戸繁昌記』以降「繁昌記」というタイトルを付けられて大流行しました。このような現象は現在の日本でサブカルチャーが突出した人気を持つことと通じるものがあるように思われます。

 

※このとき配布した資料の部数が足りず、ほしいと仰っていた方がおられたのですが、連絡先を伺わないまま、どなたかわからなくなってしまいました。大変失礼いたしました。もしこれが目にとまって気付かれましたらお知らせください。

Roundtable

入口敦志先生、福田安典先生、ラウラ・モレッティ先生によるラウンドテーブル「『データ駆動』の可能性を考える」では会場からも活発な発言がありましたが、私も日ごろ思っていることを発言できました。

それは、OCRやAIでくずし字を読む技術を開発している人たちにリスペクトを持って協力してほしいということです。

AIがうまくくずし字を読めなかったとき、くずし字が読める研究者はともすれば「やはり人間でなければダメ」ということを言いがちです。しかし、くずし字が読める人間の脳を再現できる莫大な予算と電気があれば、コンピュータも人間と同じ程度にくずし字を読めるはずです。その段階でも「人間でなければダメ」と言う人はオカルトの世界の住人でしょう。「人間でなければダメ」と言って溜飲を下げるのではなく、コンピュータをくずし字が読める人間と同レベルにするために、開発者に協力していくべきだと思います。

コンピュータがくずし字を読み、人間がその校正をするような状況が、学習意欲をそいでしまうという指摘もありました。これについては、私は単に学習方法とユーザーインターフェースの問題に過ぎないと考えます。機械の下僕になったように感じてしまうUIを、間違った読みを機械に教えてあげる教師になったように感じるものにすればよいのです。このあたりも、OCRやAIでくずし字を読む技術を開発している人たちとの良い協力関係が必要だと思います。

これからも、くずし字を読める人を育てなければならないのはもちろんです。一方で、日本にはくずし字を読める人たちが一生翻刻し続けても翻刻し終えない、膨大な書物が存在します。この文化遺産に誰もがアクセスできるようにするためには、機械でくずし字を読む技術の開発は不可欠で、私たちはそれに協力すべきでしょう。

 

 

他にも印象に残った研究発表、落語や講談のイベントからディナーまで、記しておきたいことがたくさんあるのですが、とりあえず自分が関わったところだけ記録しておきます。

*1:せっかくだからとこのあとLondonだけでなくLake DistrictやCotswoldsを巡って9月末に帰国しました。その間たまったあれこれが未だに片付いていません……。

これからの生活について

特任教授(任期1年)でいられるのも、あとひと月になりました。あちこちで今後どうするの?と聞かれるので書いておきます。

週2コマの専業非常勤、つまり限りなく無職になります!

 

就職するに当たって、それまでたくさん持っていた非常勤を辞めることになりました。科研費を管理してもらっている大学のコマと、授業時間が変則的で希望を聞いてもらえる専門学校のコマは残せました。他は1校だけ復活できそうですが、以前のように専業非常勤で生活するのは無理です。年齢的に公募も難しいでしょう。

 

どうしようかなーと思っていたところ、某所で働いている友人に誘われました。

専業非常勤のころと比べて特任だと同じしんどさで収入が2、3倍になったと言うと、アナタまだ10年は働けるでしょ、うちなら給料さらに倍出るよ、広いところに住んで毎年海外旅行できるよと言うのです。

 

無駄に健康なので10年は嫌だけどあと5年くらい働きたいと思っていた私の心は揺れました。なぜそんないい誘いに即決しなかったかというと、そこに就職すると研究はできなくなるのです。

 

けっきょくその話はお流れになりました。後悔しないかと思ったのですが、小金持ちの生活ができても、死ぬときに書けなかった本や論文のことで後悔することになるなら、プラスマイナスでマイナスになるでしょう。

 

というわけで、とりあえず10月から年度終わりまでは週2コマの非常勤と書き物のアルバイト(週1コマ分くらいの報酬)で生活をします。足りない分はこの1年の蓄えを取り崩すことになると思います。取り崩しが精神的にあまりにも厳しければ、軽作業バイトをすればいいし。

 

あくまでも論文と本を書くことを第一にするつもりです。あんまり遊ばないつもりだし酒も控える。給料が倍という選択肢を捨てて選んだことを忘れないようにしたい。

特任教員(1年だけ)になりました

任期は1年だけですが、10月1日付けで特任教員になりました。新学期の1週目が終わったところです。

これまでの非常勤先(後期の非常勤は徐々に減って6コマになっていました)には年度途中でご迷惑をおかけすることになってしまったのですが、就職が決まったことを報告すると、それぞれ

  • 契約終了
  • 曜日などを出講できるよう変更
  • 集中講義に変更

となりました。任期は1年だけなので、科研費を管理してもらっている非常勤先は死守しました。

1年の任期が終わったあと非常勤のコマ数が回復するとも思えないので、これまでと同じく慎ましく暮らして貯金するつもりです。なので生活はあまり変わらないと思います。

とはいえ、専業非常勤講師の暮らしが長すぎて既にカルチャーショックの毎日です。

大学の居心地はとてもいいです。子供の頃からの友人に大学名を伝えたら「えっ! ぴったりやん!」と言われました。

揖斐高『頼山陽――詩魂と史眼』

揖斐高『頼山陽――詩魂と史眼』は頼山陽に興味を持った人に、はじめの一冊として勧められる本だ。

これまでは、初めの一冊としては中村真一郎の『頼山陽とその時代(上)(下)』を勧めていた。言わずと知れた名著である。一時期は手に入れにくかったが、ちくま学芸文庫に収録され、Kindleもある。

しかし、『頼山陽とその時代』はかなりボリュームのある本なので、ちょっと興味を持ったという人に勧めるには気が引ける。せっかくの興味の芽を摘む虞がある。

また、出版当時と現代とでは感覚が違っている部分がある。『頼山陽とその時代』は山陽の若き日の出奔について、心の病に原因を求めた点が画期的であった。当時は心の病に対する話題がまだまだタブーであったが、それゆえの表現が現在の若い読者には違和感となるところがあると思う。

頼山陽とその時代』が今でも読まれるべき名著であることは間違いないが、このような理由でもう少し読みやすい本がないかと長年思っていたのである。

ネット上では四季・コギト・詩集ホームぺージに本書について詳細に記されている。

shiki-cogito.net

これを読んだ瞬間、あ、もう私が書くことないわと思ったのだが、以下に覚え書きをメモ程度に記しておきたい。

本書は第Ⅰ部で山陽の生涯について、第Ⅱ部でその詩と学問について述べている。第Ⅰ部は晩年までで、死後については第Ⅲ部という構成になっている。

第Ⅰ部は新書のこの分量で山陽像を描ききっていて楽しい。一言で言うと難儀な人である。しかし才はあるしどこか憎めないため味方もできて、世間から切り捨てられない人柄。難儀なエピソードの数々は是非本書をお読みください。こういうタイプの男性に引っかかる女性は現在もいるが、そのあたりも是非本書をお読みください。

第Ⅱ部の詩については、入門書としては現代語訳もあった方がよかったと思う。歴史学については、このまま幕末まで長生きしていればどうなっていただろうと思いながら読んだ。

そして第Ⅲ部は情けないゴタゴタがあって読むのがつらい。

巻末には系図と略年譜、詳しい参考文献案内もあって、研究者にも役立つ。

 

広島藩の藩儒であり厳格な人柄で知られる父春水と、大坂の立売堀で裕福に育った明るい母梅颸という、相反する二人を両親に持つ山陽は、厳格な父とイタリア出身の芸術を愛する母を持つトーマス・マンの小説の主人公、トニオ・クレーゲルを思い起こさせる。父に対する複雑な思いと、母に対するストレートな思慕は山陽の生涯にわたって影響していると思う。

茶山の書翰の「年すでに三十一、すこし流行におくれたをのこ、廿(はたち)前後の人のさまに候。はやく年よれかしと存じ奉り候事に候」(22~23頁)というところ、山陽をよく捉えているのだろうなと面白い。「流行におくれた」というのは、ファッションに疎いというのではなく、世の中からズレているという意味だろう。

春水には藩の事業として史書を叙述したいという志があったが挫折した。山陽にはこのことに触れた書翰があり、本書では

日本外史』とは別に、「中絶」した父の志を継いで、「編年の史」を「成就」したいという。山陽にとって『日本政記』の著述は挫折した父の志を継ぐ事業であり、迷惑をかけた父への償罪としての意味も有していたのである。(132頁)

と指摘する。

脱藩という罪を犯した山陽は、罪せられて死に値する立場である。にもかかわらず、幽閉ののち史書を記すことで再生を計った。本書には記されていないが、山陽は、宮刑という恥辱にまみれても、生きて父の遺言である史書を記すことを選んだ司馬遷を意識していたのではないだろうか。

難儀な人だが家計のことなど意外にしっかりと管理していたようで、稼いだ金は門人や知人に預けて運用させ、利息を得ていたという(64頁)。窮死した柏木如亭のことなどが影響しているのかもしれないし、大坂の母方の知恵かもしれない。お金はだいじである。

山陽の死後、妻梨影が書いた手紙の「此方主人事、人なみの人とはちがひ候ゆへ」「あのくらいな人をおつとにもち、其の所存なか/\でけぬ事と有りがたく存じ候」(247~248頁)というくだりなど心に染み、誰かを支える人生も、支える誰かによって充実するものだと教えられた。

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