地車を詠んだ漢詩

天満天神地車宮入 (浪花百景)

(浪華百景 天満天神地車宮入)

 

大坂の祭りといえば、地車(異論はあるかも知れないが)、地車を詠んだ漢詩といえば、『摂津名所図会大成』巻之十三上に「夏祭車楽」と題する七言絶句二首がある。

 

1首目の後藤春草は後藤松陰、美濃の人だが大阪で塾を開いており、妻は篠崎小竹の娘、町。2首目の並河寒泉は中井竹山の孫で懐徳堂教授。

 

         後藤春草

山車轆轆鼓鏜鏜 山車轆轆 鼓鏜鏜

傾市看人総若狂   市を傾け看る人 総て狂うが若し

童子何知老萊事   童子 何ぞ知らん老萊の事

満街舞踏彩衣裳   満街 舞踏す 彩衣裳

 

         並河寒泉

棚車雷皷響轟轟 棚車 雷皷 響き轟轟

彩服斑爛躍且行 彩服 斑爛 躍り且つ行く

不識明神能享否 識らず明神 能く享くるや否や

一郷年少総如狂 一郷の年少 総て狂うが如し

 

地車だんじり)は日本独自のものだから、それを表す言葉はもちろん漢文にはない。「地車」という通俗の言葉のままだと漢詩にならないので工夫が必要になってくるのだが、『摂津名所図会大成』では「車楽」、松陰の詩では「山車」、寒泉の詩では「棚車」という語で地車を表している(「山車」は現在では「だし」と読んで「だんじり」には使っていないようだ)。

 

松陰・寒泉のどちらも「満街 舞踏す 彩衣裳」「彩服 斑爛 躍り且つ行く」と衣裳に注目しているが、これは『摂津名所図会』や『浪華百景』の挿絵からもわかるように、揃いの法被とパッチのことだろう。浪華百景を見ても揃いの衣裳が目立つ。

この衣裳の模様は版元の「石和」の文字を用いていることを、湯川敏男さんという方が突きとめたことが、『いちょう並木』2019年7月号に掲載されている。

おおさかKEYわーど 第103回 橋爪節也

https://www.manabi.city.osaka.lg.jp/www/contents/lll/ityou09/buckup/201907_p3.pdf

 

松陰の詩では「童子 何ぞ知らん老萊の事」と、子供の格好をして両親を喜ばせた老萊子の故事を引いている。丈の短い法被とぱっちの姿は子供っぽいイメージがあったのかもしれない。

 

韻は偶然か、どちらも平水韻では下平声七陽で、「狂」の字が入っている。この「狂」は「クレイジー」といったニュアンスである。現在は誤解を生むのであまり使わなくなったけれど、熱狂的に地車に入れ込む人を「地車キチガイ」と言った。熱狂的な阪神ファンを「トラキチ(トラ+キチガイ)」と言う、あの用法だ。

 

後藤松陰と並河寒泉が詠んだ地車がどこのものかはわからない。それぞれの詩集にこの詩が収められていて、注でもあれば特定できるがまだ見ていない。江戸時代、天神祭では80台の地車が宮入したというし、今は絶えていても地車のあった神社は現在よりずっと多かったと思われる。

 

頼春水の『春水遺稿別録』には春水が北山七僧から天神祭に誘われた話が記されているが、美濃の後藤定六という人物が出てくる。同じ美濃出身なのでこれが後藤松陰なら、前掲の詩は天神祭地車を詠んだものかもしれない。ただ、松陰は春水の息子の頼山陽に学んでいるので、年代が少し合わないような気がする。ちなみに春水は人混みが好きではなく、大坂に七年住んで天神祭を見物するのは初めてだと書いている。後藤松陰や並河寒泉ら地元に住んでいる者と他所から来た者の温度差かも知れない。またまたちなみに、天神祭については菅茶山に「浪華三首 天神会」(『黄葉夕陽村舎詩』巻四)があるが、これには地車は詠まれていない。

 

 『摂津名所図会』巻四(八丁裏九丁表)、坐摩神社地車

夏祭車楽囃子  車楽はもと河内国誉田祭よりはじまりて、今は尾州の津島祭にもありて、船にてめぐり囃し立つるなり。また熱田祭にもあり。その外諸州にあり。大坂の車楽は数おほし。特に東堀十二浜の車楽は、錦繍を引きはへ美麗を尽して、生土の町々を囃しつれて牽きめぐるなり。これ大坂名物のその一品なるべし

きれいどころが乗っているのにびっくり。女は地車に乗らないというのは新しい風習なのかも。

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