富永屋の扁額が示すもの──乙訓漢詩壇と朝鮮開化派──

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川崎鉄片『鉄片遺稿』(架蔵本)
 
明治の漢文学史に於いて、これまで知られていなかったが、乙訓地域には共研吟社という宇田栗園が主宰した漢詩結社があり、一地方とは思えぬ賑わいを見せていた。川崎鉄片はこの乙訓漢詩壇の優れた詩人の1人である。
 
鉄片こと川崎安之助(1867~1930)は大山崎出身、大山崎村長、京都府町村会長、京都府議会議員を務めた。明治は漢詩が政治を取り戻した時代と言われるが、まさに詩人にして政治家という人物である。
 
嗣子川崎末五郎が上梓した鉄片の『鉄片遺稿』には、政治家らしく「総選挙後三日、桂村・香雪二公訪らる」などの選挙に関わる作や、「征露の役戦死者小野某を弔う」という日露戦争の戦死者を弔問する作がある。また「満韓游草」と題する連作もあって、鉄片が満州や朝鮮に渡っていることがわかる。
 
ところで同詩集には「又金秀才の韻に次す」と題する、「金秀才」との交友が伺える作があり、よくわからないままだった。「秀才」とは科挙に合格した者の称号であり、日本人ではない。これまで人物が特定できなかったが、富永屋に現存する額から、それが日本の明治維新をモデルに近代化を目指した朝鮮開化派の金玉鈞の養子、金英鎮である可能性が非常に高くなった。
 
額は「富貴長楽」という典型的なめでたい辞が記されたもので、金英鎮の署名がある。金玉均が日本に亡命していたことはわかっているが、金英鎮も来日し、富永屋に滞在していたのである。私はこのあたりに疎いのだが、近代史の研究において、金英鎮も来日していたということは明らかになっているのだろうか(私が読んだ本にはそのような記述はなかった)。もし明らかになっていないのなら、この扁額は来日の貴重な証左となる。金玉均は宿泊していたのかどうか、宿泊の日時の特定なども、富永屋の宿泊名簿も確認しておくべきであろう。
 
川崎鉄片の属した共研吟社は、向日神社や長岡天満宮など乙訓の名所でしばしば詩会を持っていた。富永屋は西国街道沿いにある旅籠で、向日神社の向かいに位置する。江戸時代から日本の漢詩人たちにとって、長崎の商館の中国人や朝鮮通信使と詩のやりとりをするのは憧れだった。乙訓の吟社の詩人たちが、向日神社門前の富永屋に宿泊している朝鮮の知識人と接点を持とうとしないのは考え難い。「金」はよくある姓であるし、朝鮮渡航の際に別人と詩の応酬があった可能性も否定できないが、他に共研吟社周辺で「金秀才」と呼べる人物は浮かんでこない。また、朝鮮開化派の亡命者たちの日本での複雑な立場を考えれば、あえて特定できない「金秀才」という表記にしたのかもしれないという推測も、邪推とは言いきれないと思う。
  
いずれにしろこの額は、富永屋が朝鮮開化派の一流の政治家・文人を接待できる旅籠であったこと、そして乙訓漢詩壇の詩人、少なくとも川崎鉄片は朝鮮開化派の一流の文人たちと交流できる水準に達していたことを示すという点で、非常に貴重なものであるといえる。乙訓は幕末期には尊皇の志士を匿った土地柄であるが、国際的なレベルでそういう政治的なやりとりがあったかどうかも興味深いところである。
 
追記
森万佑子『朝鮮外交の近代 宗属関係から大韓帝国へ』、名古屋大学出版会2017
月脚達彦『朝鮮開化思想とナショナリズム 近代朝鮮の形成』東京大学出版会2009
姜健栄『開化派リーダーたちの日本亡命: 金玉均・朴泳孝・徐載弼の足跡を辿る』朱鳥社2006
を見た限りでは、金英鎮についての記述はなかった。この扁額が富永屋で書かれたものなら金英鎮が日本に来た証左になる。

漢字が書かれた掛け軸を読みたい!

家を片付けていたら漢字が書かれた掛け軸が出てきた、そんなとき是非読むのに挑戦してほしいと思います。楽しいから!

 

まず、確認するのは漢字の数。漢字が5つくらいしか書かれていなかったりしませんか? お茶を習っている人がいてその人が手に入れたものなら禅語である可能性が高いです。茶道のハンドブックのようなもので禅語を探してみてください。下記のような詳しい辞典もあります。

有馬賴底監修『茶席の禅語大辞典 』、淡交社2002/01
項目数、4500余語の禅語を収録!茶席で拝見する「一行物」(掛物)の語意・禅旨を、約800点の墨蹟写真とともにやさしく解説。……(淡交社サイトより)

というわけで、4500余も収録されているのですから、まず見つかるのではないでしょうか。

 

こちらは同じ淡交社から2016年に出版された『充実 茶掛の禅語辞典、収録項目数はさらに多い5300余項目。

 

 

気軽に手に入れて学びたいというのであれば、講談社学術文庫のものがコスパがよさそうです。


漢字の数が多いときは、いくつあるか数えてください。28字なら七言絶句、20字なら五言絶句の可能性が高いです。

ネットを使ってくずし字を読むのなら、奈良文化財研究所の『木簡画像データベース・木簡字典』と東京大学史料編纂所の『電子くずし字字典データベース』の連携検索がよく使われています。2021年7月をもって閉鎖されました。現在は史的文字データベース連携検索システムになっています。

mojiportal.nabunken.go.jp

文字画像(一文字分)から似た形の文字画像が解析できる木簡・くずし字解読システムもあります。

mojizo.nabunken.go.jp

くずし字を解読する辞典はたくさん出ていますが、ここでは『五體字類』を紹介しておきましょう。

seitoshobo.jp

大正5年『袖珍しゅうちん 五體ごたい字類じるい』に始まる『五體字類』は書体の辞典のベストセラー。これを使って書いたのなら、これを見れば読めるというわけです。

改訂版が現在でも刊行されており、書道などに親しんでいる人や、日常的にくずし字を書く人は手に入れて損はないと思います(私も愛用しています!)。

高田忠周・後藤朝太郎校『五體字類』法書会編 大正5年初版については、著作権が切れていますのでネットで全文公開されています。

www.let.osaka-u.ac.jp

漢詩の軸の場合は、各種くずし字辞典の中でも古文書を読むためのものではなく書道向きのものが役立つでしょう。


なかなか読めない字がある場合、韻と平仄の知識があれば文字の候補を絞れます。韻と平仄に関しても「韻と平仄を検索するページです」「漢詩のための押韻平仄チェックツール」のように便利なサイトがあります。

tosando.ptu.jp

 
 

jigen.net


日本人の漢詩の場合、梁川星巌や藤井竹外など著名な詩人はそれぞれ十八番の漢詩がありますので、詩吟の教本などで使われていないか見ると早く見つかると思います。

また、ネットで検索してもすぐには出てこない、さほど有名でなさそうというときは、地元でかつては有名だった漢詩人の可能性があります。そういった漢詩人は自治体のサイト等で紹介されていることが多いです。図書館や資料館、地元の大学、教育委員会などに問い合わせるのもいいでしょう。その詩人の代表作がすぐにはわからない場合、詩集から探して下さい。

 

中国の漢詩の場合、蘇州の寒山寺のお土産の定番に張継の「楓橋夜泊」の拓本があって、これは大量に出回っています。まずは「月落烏啼霜満天」で始まっていないか見て下さい。

大坂の桃源郷ーー生駒山人の描いた日下村

陶淵明の「桃花源記」に描かれた桃源郷は俗世を離れた理想社会です。その昔、武陵の漁師が迷い込んだ桃林の果てに、その村があったといいます。

 

晋の太元中、武陵の人、魚を捕らふるを業と為す。渓に縁うて行き、路の遠近を忘る。忽(たちま)ち桃花の林に逢ふ、岸を夾むこと数百歩、中に雑樹無く、芳草鮮美にして、落英繽紛(ひんぷん)たり。漁人甚だ之を異(あや)しむ。復た前み行きて、其の林を窮めんと欲す……

 

江戸時代の大坂の町から見て、桃源郷はどこにあったでしょうか。武陵の漁師がそうしたように、舟で行く場所であることが条件の1つでしょう。生駒山人に次の五言律詩があります。

 

  自浪華還   浪華自り還る
浪華城下水  浪華城下の水
歸客此揚舲  帰客此に舲を揚ぐ
日落綿花白  日落ちて綿花白く
江澄蘆荻青  江澄て蘆荻青し
埀綸應我友  綸を垂るは応に我が友なるべし
傍竹問誰亭  竹に傍ひて誰か亭をか問はん
知是家人輩   知んぬ是れ家人の輩
攜來炬一星   携へ来たる炬一星
(『生駒山人詩集』巻之一)

 

大坂から舟で帰るようすを詠んだこの詩の頷聯には「日落ちて綿花白く 江澄て蘆荻青し」白い綿の花と青々とした蘆とあります。生駒山人の宅は河内木綿で栄えた河内の日下村にありました。

故郷を愛した生駒山人は、日下村の田園詩を多く残しています。

 

  日下四時吟  日下四時の吟

河陽日下村  河陽日下村
多少桃花樹  多少桃花樹
如逢漁夫來  如し漁夫の来たるに逢へば
可問避秦住  問ふべし秦を避けて住するやと

 

「河陽日下村 多少桃花樹」(この「多少」は多いという意味)とあるように、生駒山人の詠む春の日下村には、しばしば桃が登場します。かつて河内の稲田村は一帯が桃林で、稲田桃は大坂や京都に出荷されていたといいますが、日下村にも稲田桃は植えられていたのでしょう。「如し漁夫の来たるに逢へば 問ふべし秦を避けて住するやと」が「桃花源記」を意識していることは言うまでもありません。桃源郷の条件の2つ目は、そこに行くまでに桃林を通過することです。

 

『河内名所図会』六巻「稲田桃林(いなだのももばやし)」には生駒山人の七言絶句が添えられています。


誰家年少野村西  誰が家の年少ぞ野村の西
沙岸停舟路欲迷  沙岸舟を停めて路迷はんと欲す
十里桃林花未落  十里の桃林花未だ落ちず
始知身到武陵渓  始めて知る身は武陵渓に到るかと

 

生駒山人の遺した詩を詠んでいると、山人が故郷の日下村を桃源郷に擬えていたことがわかります。山人の詩の世界だけでなく、日下村を訪れた大坂の文人たちは、見事な桃林にまさに桃源郷に来た気分になったことでしょう。稲田桃は明治期に一旦姿を消しましたが、近年市民によって再生し、郷土の名産として知られるようになったとのことです。

 

平成27年8月6日 郷土の名産「稲田桃」を地元児童が収穫 | 東大阪市

平成30年3月26日 春の風物詩 稲田桃の花が満開 | 東大阪市

 

生駒山人こと日下生駒(正徳二年(1712)~宝暦二年(1752))は真蔵、また勝二郎といい、孔舎衙(日下)の孔をとって孔文雄とするものもあります。河内国河内郡日下村(現東大阪市日下町)の庄屋、森長右衛門の長男として生まれました。

河内を代表する漢詩人で、惜しくも四十歳の若さで世を去りましたが、生前から詩人としてその才能を知られていました。京都の龍草蘆と親しく、龍草蘆の詩社、幽蘭社の詩人でありました。
現代では忘れ去られていることが多い江戸時代の詩人の中で、生駒山人は地域の人々に知られています。日下村に残された古文書については、浜田昭子氏の主宰する日下古文書研究会が翻刻、紹介する活動を続けておられますが、生駒山人を輩出した森家についても、森長右衛門の残した『日下村森家庄屋日記』(2005)などが出版されています。

特に生駒山人に関しては、会員の山路孝司さんが熱心に取り組んでおられ、会報『くさか史風』に生駒山人の詩の注釈や伝記関係の論考などを次々に発表しておられます。

日下古文書研究会

 

追記

このとき考えていたことを元に論文を書きました。

ci.nii.ac.jp

大坂の漢詩を読んでいます

今年度の懐徳堂古典講座で「大坂の漢詩を読む」(江戸時代の作品を読むので「大坂」にしています)という講座を担当しています。全8回、主に近世後期の漢詩を取り上げる予定です。4月の初回は大阪の漢詩を読む意義についてお話し(伝わったかなあ)、生駒山人の漢詩を読みました。

 

古典なんかいらない、文学なんか何の役に立つのかと言われるいまどき、漢詩を読むという、役に立たないにも程がある講座を受けようという方々がおられることに感激し、感謝しております。

 

日本国中どこでも事情は同じだと思うのですが、大阪でも、地元の有名な古典文学は井原西鶴近松門左衛門上田秋成…といった和文脈に偏っています。漢文脈の作品が注目されることは少ない、というかほとんど知られていないのが現状です。

和文脈の古典に不満があるわけではありません。私とて大阪人、西鶴を読んではうまいなあと感心し、文楽近松を聞いて涙し、秋成の難儀さに惹きつけられています。この大阪の文学に、漢文脈の作品、漢詩を加えたいのです。

 

いや大阪を詠んだ漢詩が忘れ去られているのは忘れ去られるだけの理由があって、わざわざ掘り返すことはない、近松西鶴で十分間に合ってる、そう言われるかも知れません。しかし、近世後期の漢詩のスタイリッシュでハイブロウな雰囲気は、他の文学ではなかなか味わえません。そしてその雰囲気は、かつての大阪にも確かに存在したものなのです。

 

大阪人なら、現在の一般的な大阪のイメージに多かれ少なかれ不満があるのではないでしょうか(私は大いにあります!)。活気があり、庶民的な町。派手な衣服を好み、きさくで、悪くいえば品がない人たち……。メディアは大阪といえば戎橋筋あたりか通天閣周辺ばかり映し、料理はお好み焼きやたこ焼きのようなスナックばかり取り上げます。

 

現在のメディアを通じて描かれる大阪は一面的に過ぎ、本来の豊かなイメージが忘れ去られつつあります。知的で上品で垢抜けている大阪が、漢詩の世界にはあります。大阪を詠んだ漢詩を古典として復活させることは、本来の大阪の文化的なイメージを取り戻すことに繋がっていくと私は信じています。

 

 

馴染みのない漢詩というだけで埋もれてしまった大阪の詩人を再評価し、次の時代に歴史を繋いでいくことは、“役に立つ"ことだと私は考えています。

自分たちの住む地域の歴史や文化を学ぶことは、郷土を愛する心と誇りを育みます。総合学習の時間などを使って子供たちに地域の歴史と文化を知ってもらう際には、俳句(俳諧)や和歌などの和文脈と同様、漢詩も紹介して頂きたいと思います。

漢詩なら、万葉集の序文から「令和」という元号が作られたように、地域のネーミングに使える格調高い言葉を引き出すことができます。

また、増加している中国人観光客には、親しみを感じてもらえると同時に大阪の文化水準の高さを知ってもらえるでしょう。

 


入谷仙介先生は、かつて「漢文を扱う研究者は一人につき一人、埋もれた日本の詩人を取り上げてほしい。」とおっしゃいました。私は一人につき一人というノルマを達成したつもりですが、一人につき一人では足りないとも思っています。

この講座で、私は大阪の漢詩文化の種を蒔いていくつもりです。受講生の皆さんの中から、地域の埋もれた詩人を顕彰して下さる方、残された古文書から詩人を発見して下さる方、そのような方に協力を惜しまない方が現れることを願っています。

www.let.osaka-u.ac.jp

チラシです↓

http://www.let.osaka-u.ac.jp/kaitokudo/_upload/20190205-1425071.pdf

引っ越しました

はてなダイアリーに「固窮庵日乗」と題していろいろ書いていたんですが、こちらに引っ越しました。といいますか、正確にははてなダイアリーのサービスが終了して更新できなくなったのでした。

日乗というほどマメに更新しないのでタイトルも変えました。「固窮庵日乗」同様、よろしくお願いします。

文章表現の授業に関する記事は

エッセイは

をご覧下さい。