近況報告

ご無沙汰しています。

2020年の幕開けは最悪なものでした。大晦日には例年と変わりなくお節料理を作っていたのに、元旦に高熱が出たのです。翌2日、フラフラの状態でなんとか救急医療センター的なところに辿りつき、インフルエンザと診断されました。

私は自分からは年賀状を出しておらず、三が日に届いたのを見て返事を書かせてもらっているのですが、それどころではなく、正月休みにするつもりのあれこれも滞ったまま、採点の祭典に突入しました。

そして新型コロナウイルスはやって来たのです。

4月になっても大学が始まらないと決まったとき、これは1年、もしかしたら2年は休校になると思いました。どうやって生活していこう? 非常勤先で給与がどうなるか連絡してきたところは、1校しかありませんでした。電話の向こうの声は力強く、全額支給することをお約束しますと言ってくれたので、私は涙が出そうになりました。前期1コマ14回分14万円ですが。

私は仕事関係のファイルをひっくり返し、各非常勤先が不開講のとき給与の何割を支給するかを確認し、天を仰ぎ、しばらく呆然としました。が、「風と共に去りぬ」のラストシーンのように立ち上がり、すごい勢いで暴落しつつある株を、まだ今ならマシ、と現金化しました。とりあえず数ヶ月はなんとか生きていける。そしていつ罹ってもいいように、ゼリー飲料やレトルト粥などを買い込みました。

あのニュートンは、ペストでケンブリッジ大学が休校になり故郷に帰っていた1年半に、主要な業績を成し遂げたといいます。私も新型コロナウイルスによる休校で「創造的休暇」を手に入れたのだ、と思いました。給料は出ないけど。

せっかくの「創造的休暇」が天から与えられたのです。私は本を書くことにしました。これまでも本を書いたらどうかという有り難いチャンスをいくつか頂いていたのに、授業をこなすだけで消耗して(今年も書けなかった…私は何という駄目な人間だ…)と自己嫌悪に陥るのを繰り返してきたのです。手始めにコラムの連載を、1冊の本になっても読めるよう手を加えてまとめました。次に、これは本ではありませんが、短歌の賞に応募するよう勧められていたので、連作を詠むのに挑戦して応募しました。

そしてそのあと、2冊目の本に取りかかろうとしたところで、休校という予想が外れて、遠隔授業をすることになったのです……。

遠隔授業をしていた日々のことは、記憶が鮮明なうちに改めて書こうと思っていますが、結論としては、もう無理、と思いました。今の非常勤のコマ数をこなしていくのは、対面授業でも遠隔授業でも無理、去年までは極限まで効率化して何とかあのコマ数を回していたのだということを身に沁みて感じました。もうこういう無理を続けていたら死ぬ。マジ死ぬ。

非常勤のコマ数を減らさないと本なんか書けないよと助言されていました。辞めて書かせるため旅館かどこかに軟禁しようかとも(冗談で)言われていました。私はこの年齢で原稿料や印税という博打みたいなものに収入を頼るのが不安で、確実に収入の保証された非常勤講師の職を手放せなかったのです。

しかし、今回のコロナ禍で、緊急事態に非常勤講師というものがどう扱われるかを身を以て体験し、非常勤講師の暮らしこそが博打だと気づいてしまいました(気づくの遅い)。

たとえ博打みたいでも、本を書く方がずっと人間らしく働ける。遠隔授業で必要な物品は自腹を切って購入し、食事とシャワー以外の起きている時間はほとんどずっと働いていたので、時給という点でも本を書いていた方が上でした。どんなに売れない本でも。もう迷いはないです。

というわけで最近の私のまとめです。

  • 授業期間中の張り詰めた気持ちが緩んだのか、しんどいです。とにかくしんどいです。寝たらそのまま死ぬかもと思って目をつぶるのが怖いくらいしんどいです。
  • 本を書いています。楽しくてにやにやしながら書いています。
  • 本を書く仕事が途絶えないでほしいなと思っています。
  • 短歌の連作は賞を頂きました。ありがとうございます。(これについても改めて書きます)
  • 懐徳堂講座で大阪の漢詩について話す機会がなくなったのが寂しいです。YouTubeとかツイキャスとかどうかなーと考えています。
  • 非常勤講師をいくつか辞めます。お世話になった方や学生さんのことを思うと申し訳なく、辛いですが、今のコマ数は自分にはもう無理で、減らさないと倒れたり死んだりしてよけいにご迷惑を掛けるだろうということがわかったので。

ではまた。次回は遠隔授業のことを書きます。

令和2年度懐徳堂古典講座「大坂の漢詩を読む」始まります→始まりませんでした

第1回目の講義から振り替えになってしまったのですが、今年も懐徳堂古典講座「大坂の漢詩を読む」を担当します。どうぞよろしくお願いします。

www.let.osaka-u.ac.jp

http://www.let.osaka-u.ac.jp/kaitokudo/_upload/20200205-1454311.pdf

この春は漢詩に挑戦してみませんか?

 新しい元号「令和」が発表されたとき、出典は万葉集だとされながらも、王羲之の「蘭亭序」や張衡の「帰田賦」の影響が指摘されました。また、新型肺炎武漢で広まったとき、日本から中国への支援物資に添えられた漢詩が話題になりました。漢詩の持つ力や日本文化に与えた影響を再認識された方も多いかと思います。
 これまで和文の古典に親しんできた方、この春は漢文の古典を読んでみませんか? 短歌や俳句などを嗜まれる方、言葉の引き出しに漢詩の世界を加えてみませんか?

なぜ漢詩なのか

 この講座で読むのは江戸時代の日本人が大坂を詠んだ漢詩です。江戸時代も後半になると、漢詩文で都市の繁栄がさかんに描かれるようになりました。京都や江戸と同じく、大坂の名所もこういった作品の中に取り上げられ、その個性や魅力が記されています。
 大坂の街を詠むのに、なぜわざわざ漢詩を選んだのでしょうか?
 漢詩漢文で書けば、中国人と当時の東アジアの知識人は読むことができたからです。鎖国という状況の下で、日本人はチャンスがあれば自分の作品を中国人に読んでもらいたいと切望していました。漢文は、日本人にとって世界に向けて書く文体だったのです。そこには自ずと、和歌や俳諧とは違った世界が広がっています。

スタイリッシュでハイブロウな大坂文化がここに

近世の大坂では、このような世界に向けた文体である漢文を読み書きする豊かな町人が中心となって、スタイリッシュでハイブロウな文化圏を形成していました。現在メディアを通じてステレオタイプに描かれるものとはまったく違う、知的で上品で垢抜けている大坂が、漢詩の世界にはあります。
 大坂の文学は近松西鶴で十分間に合っている、そう言われるかも知れません。しかし、大坂を詠んだ漢詩を古典として復活させることは、本来の大坂の文化的なイメージを取り戻すことに繋がっていくと私は信じています。

“推し”詩人は天才少年・田中金峰

 大坂を読んだ漢詩から、今年度は田中金峰の作品をとりあげます。わずか十九歳で亡くなった金峰少年の大坂を詠んだ漢詩は、『大阪繁昌詩』と題して父、田中華城によって文久三年に出版され、ベストセラーになりました。
 この講座では、当時の名所図会や地誌などを参照しながら、金峰の漢詩をじっくり読んでいきます。名所にはしばしば和歌や俳句が伝わっていますが、漢詩もそこに加えて、今では知る人も少なくなったこの天才少年を蘇らせたい、そして詩語で綴られた大坂の風景と豊かな文化を楽しんでいただきたいと思います。

六人部是香「向日山を称賛せる歌」

富永屋から六人部是香の長歌が記された額が出てきたというので、翻字して本日11月28日説明会を行った。
 

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六人部是香扁額


【翻字】
称讃於向日山歌並短謌」美濃守六人部宿禰是香」
朝附日むかひの山は」
日のたての春野のとけみ」をちこちに雉子妻よひ」
日のぬきの夏山しけみ」こちこちに水鶏友よひ」
影面の月をさやけみ」おほほしき心もそるけ」
外面の真雪をきよみ」いふかしき思いもおきぬ」
ますかかみむかひの山は」
年のたにをれともあかす」月ことに見れともあかす」
千年とししかそ栄えむ」万世にかくはさかえむ」
かきり知らずも」
月々のかはるまにまにむかひ山目にも耳にもあかれやはする
【試訳】
向日山を称賛する歌 并に短歌
美濃守六人部宿禰是香 

向日山(向日町)の東側の野原は、春になると長閑で、あちこちでキジが妻を呼んで鳴いている。

西側の山は、夏になると木々の葉がしげって、あちこちでクイナが友を呼んで鳴いている。

南側は、(秋になると)月が清らかで、塞いだ心もなくなるようだ

北側は、(冬になると)雪が清らかで、もっと見ていたい気持ちになる。

向日山(向日町)は
何年住んでいても飽きることがないし、
何ヶ月見ていても飽きることがない。
千年もこのように栄えていくだろう、
何代もこうやって栄えていくだろうことは、
かぎり知れない。

月が変わるままに向日山(向日町)も変わっていく
見ても聞いても飽きることがあるだろうか、いや飽きることなどないのだ。 
出だしが明らかに万葉集にある人麻呂の旋頭歌、
  朝月日向かひの山に月立てり見ゆ遠妻を持てらむ人し見つつ偲はむ
を踏まえているように、国学者らしく万葉調の歌である。人麻呂の言う「向かひの山」が文字通り向かい側にある山という意味なのに対して、是香は向日町を意味する言葉として使っているのだろう。
東西南北と春夏秋冬で緊密に構成した空間の広がりと、未来に向けての時間の広がりが感じられる大きな歌である。
 
佐佐木信綱(一八七二~一九六三)は『歌学論叢』において六人部是香に一章を割き、その長歌を高く評価しているが、さすがである。六人部是香は現在では平田篤胤の高弟として知られているが、その歌も見直されて良いのではないだろうか。この歌は国学者臭さのまったくない、郷土愛に満ちたものだ。
 
この額が富永屋から出てきたことは、六人部是香は富永屋で歌会をしていたという向日神社宮司さんの発言を裏付けるものだといえる。富永屋は単なる宿泊施設ではなく、サロンとして機能していたのである。富永屋の当主、甚右衛門は六人部是香の下で和歌を学んでいたから、師の是香の額が出てくるのも自然なことである。会場を提供してくれる弟子に対するお礼だったのかも知れない。この額の下で向日町の人々、また西国街道で向日町にやってきた人々が歌会を楽しんでいたことを想像すると、実に楽しい。

地車を詠んだ漢詩

天満天神地車宮入 (浪花百景)

(浪華百景 天満天神地車宮入)

 

大坂の祭りといえば、地車(異論はあるかも知れないが)、地車を詠んだ漢詩といえば、『摂津名所図会大成』巻之十三上に「夏祭車楽」と題する七言絶句二首がある。

 

1首目の後藤春草は後藤松陰、美濃の人だが大阪で塾を開いており、妻は篠崎小竹の娘、町。2首目の並河寒泉は中井竹山の孫で懐徳堂教授。

 

         後藤春草

山車轆轆鼓鏜鏜 山車轆轆 鼓鏜鏜

傾市看人総若狂   市を傾け看る人 総て狂うが若し

童子何知老萊事   童子 何ぞ知らん老萊の事

満街舞踏彩衣裳   満街 舞踏す 彩衣裳

 

         並河寒泉

棚車雷皷響轟轟 棚車 雷皷 響き轟轟

彩服斑爛躍且行 彩服 斑爛 躍り且つ行く

不識明神能享否 識らず明神 能く享くるや否や

一郷年少総如狂 一郷の年少 総て狂うが如し

 

地車だんじり)は日本独自のものだから、それを表す言葉はもちろん漢文にはない。「地車」という通俗の言葉のままだと漢詩にならないので工夫が必要になってくるのだが、『摂津名所図会大成』では「車楽」、松陰の詩では「山車」、寒泉の詩では「棚車」という語で地車を表している(「山車」は現在では「だし」と読んで「だんじり」には使っていないようだ)。

 

松陰・寒泉のどちらも「満街 舞踏す 彩衣裳」「彩服 斑爛 躍り且つ行く」と衣裳に注目しているが、これは『摂津名所図会』や『浪華百景』の挿絵からもわかるように、揃いの法被とパッチのことだろう。浪華百景を見ても揃いの衣裳が目立つ。

この衣裳の模様は版元の「石和」の文字を用いていることを、湯川敏男さんという方が突きとめたことが、『いちょう並木』2019年7月号に掲載されている。

おおさかKEYわーど 第103回 橋爪節也

https://www.manabi.city.osaka.lg.jp/www/contents/lll/ityou09/buckup/201907_p3.pdf

 

松陰の詩では「童子 何ぞ知らん老萊の事」と、子供の格好をして両親を喜ばせた老萊子の故事を引いている。丈の短い法被とぱっちの姿は子供っぽいイメージがあったのかもしれない。

 

韻は偶然か、どちらも平水韻では下平声七陽で、「狂」の字が入っている。この「狂」は「クレイジー」といったニュアンスである。現在は誤解を生むのであまり使わなくなったけれど、熱狂的に地車に入れ込む人を「地車キチガイ」と言った。熱狂的な阪神ファンを「トラキチ(トラ+キチガイ)」と言う、あの用法だ。

 

後藤松陰と並河寒泉が詠んだ地車がどこのものかはわからない。それぞれの詩集にこの詩が収められていて、注でもあれば特定できるがまだ見ていない。江戸時代、天神祭では80台の地車が宮入したというし、今は絶えていても地車のあった神社は現在よりずっと多かったと思われる。

 

頼春水の『春水遺稿別録』には春水が北山七僧から天神祭に誘われた話が記されているが、美濃の後藤定六という人物が出てくる。同じ美濃出身なのでこれが後藤松陰なら、前掲の詩は天神祭地車を詠んだものかもしれない。ただ、松陰は春水の息子の頼山陽に学んでいるので、年代が少し合わないような気がする。ちなみに春水は人混みが好きではなく、大坂に七年住んで天神祭を見物するのは初めてだと書いている。後藤松陰や並河寒泉ら地元に住んでいる者と他所から来た者の温度差かも知れない。またまたちなみに、天神祭については菅茶山に「浪華三首 天神会」(『黄葉夕陽村舎詩』巻四)があるが、これには地車は詠まれていない。

 

 『摂津名所図会』巻四(八丁裏九丁表)、坐摩神社地車

夏祭車楽囃子  車楽はもと河内国誉田祭よりはじまりて、今は尾州の津島祭にもありて、船にてめぐり囃し立つるなり。また熱田祭にもあり。その外諸州にあり。大坂の車楽は数おほし。特に東堀十二浜の車楽は、錦繍を引きはへ美麗を尽して、生土の町々を囃しつれて牽きめぐるなり。これ大坂名物のその一品なるべし

きれいどころが乗っているのにびっくり。女は地車に乗らないというのは新しい風習なのかも。

dl.ndl.go.jp

 

「漢文」は「国語」ですが?

「漢文」なんか要らないという、こういう商売してると馴染みの話題がまたTwitterのタイムラインに流れてきた。今回は漢文クラスタの間だけではなく広い範囲でバズったようだ。たぶん、発言主が有名人であるのと、古典不要論が話題になっていることに関連させて受け取った人が多かったからだろう。

 

さて「漢文」なんか要らないと言うとき、その「漢文」が指すものには次の2つの場合があるようだ。

 1学校で学ぶ科目としての漢文

 2漢文訓読という技術

この2つが絡み合って話をややこしくしているので、今回はできるだけ1に絞って書きたい。

 

学校で学ぶ科目の場合、「漢文」に限らずあらゆる科目が要らないと言われる憂き目に遭っている。授業がわからなかった、退屈だった、先生が嫌いだった、卒業してから役立ったことなどない……などという批判をよく目にするが、そのような批判はすべての科目に共通するものだ。

生徒にそのような思いを抱かせないために教育現場で工夫や努力が必要なケースもあるのかもしれないが、そのことはその科目が要らないという直接の根拠にはなっていない。

 

漢文が要らないという根拠になりそうなこととしては、中国語で学ぶべきだという(これは「2漢文訓読という技術」に関わってくる)主張である。

しかしそれでは「国語」として学ぶことができない。「中国語」や「中国古典」という教科を新たに作ることになるが、そうなると中高生の負担は非常に大きくなるだろう。「中国古典」要らない、どうして外国の古典を学ばねばならないのかと言う声が上がるのは間違いない。私も日本の中高生がどうして外国語をもう一つ学んでまで白楽天を読まねばならないのかわからない。ゲーテでもシェイクスピアでもわからない。中にはその科目が好きになる生徒もいるかもしれないが。

要するに、漢文が要らないと言う人は、勉強しないといけない科目を1つでも減らしたい、それだけのことではないのか。その理由として役に立たないからなどと言っているだけなのだ。この「役に立たない」というのはあらゆる科目に当てはまる、魔法のようで雑な“いちゃもん”である。私もこれまでの人生で跳び箱や逆上がりが必要だったことは一度もない。役に立っていないので体育の授業はなくしてほしい。

 

TLを追えていないので既にどなたかが書いておられるのではないかと思うが、そもそも「漢文」なんか要らないという人の多くは、それが「国語」という教科に含まれていることを忘れているのではないか。学習指導要領の第1節 国語:文部科学省 を見ると、漢文は古文とセットになっていることがわかる。そもそも中学高校では漢文を中国古典ではなく日本語として学んでいるのである。日本人の書いた漢文だって学ぶことになっている。どうして中国の古典を中国語ではなく漢文訓読で学ばねばならないのかと言う人は、一度、学習指導要領を見てほしい。

漢文という科目が日本の学校教育に存在するのは、それが日本語だからである。日本語を理解するためには和文脈と漢文脈の両輪が必要だからである。漢文が必要なのは古文が必要だということと同じ理由であり、国語という教科が必要だということと同じである。このあたり話が長くなるし、昔からさまざまな人が言及しているので今は省く。とりあえず「漢文」が要らないというなら同じ日本の古典である「古文」とセットで主張してくれないと困る。

 

漢文のテキストは中国の古典であるが、同時に日本語の一部なのである。「漢文」では日本人が書いた作品も学ぶことになっているが、これは日本の古典である。「漢文」の授業では「先則制人」を「xiānjízhìrén」と読まないで「先んずれば則ち人を制す」と読む。日本語には「xiānjízhìrén」ではなく「先んずれば則ち人を制す」という形で取り入れられているからである。国語という科目が必要である限り、教科としての漢文は必要である。

きらめく感性――夭折した天才少年田中金峰の目に映った大坂

 大坂の漢詩を語る上で外せないのが『大阪繁昌詩』である。肥田皓三先生による『日本古典文学大辞典』の項を引用しよう。

大阪繁昌詩 三巻三冊。漢詩。田中金峰作。文久三年頃刊。大阪の名所旧蹟・四季行事・物産名物を詠じた漢詩一三〇首を収める。一首ごとに詩話を添え、地誌と考証随筆をかねた内容になっている。「大阪繁昌之図」と題する松川半山画の大阪鳥瞰図が巻頭にある。作者(名楽美、字君安、通称右馬三郎)は幼児より記憶力にすぐれ、十歳で既に詩を作った。生来多病、文久二年六月二十八日に僅か十九歳で没した。本書は作者が十六、七歳の時に作ったもので、没後ただちに父田中華城によって刊行された。天才少年の遺吟として、俄然世にもてはやされ、ひろく流布した。父華城が本書の後を受けて『大阪繁昌詩後編』を著し、慶応二年に続刊した。

 大坂の漢詩を読むという看板を掲げているからには、『大阪繁昌詩』の漢詩はぜひ取り上げたいところである。しかし『大阪繁昌詩』の漢詩は「一首ごとに詩話を添え、地誌と考証随筆をかねた内容になっている」とあるように、それに続く漢文がおもしろく、本来セットで味わいたいもの。これは漢文を読み慣れていない人には辛いものがありそう……。

 そこで『金峯絶句類選』から大坂を読んだ漢詩を拾ってみた。拾ってみたというか、金峰は北久宝寺坊第三街生まれ、日常生活を詠んだ詩が自然と大坂の町を描いている。この『金峯絶句類選』は明治七年、父である田中華城によって出版された金峰の遺稿集で国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる。『大阪繁昌詩』所収、吉田藩 兵頭清生の「田中右馬三郎伝」によると、「著書に大阪繁昌詩三巻、雑体詩三巻、文一巻、金字編四巻、金匱要略正義一巻、及び漫録三巻がある」ということだから、収められている作品はここに記された雑体詩三巻の一部かもしれない。

 金峰の詩は夭折の天才少年のイメージにふさわしく、きらめく感性が感じられる。南宋の繊細な詩に似ていると思ったら、南宋詩の流行に大きく関わった江戸の江湖詩社がお好みだったようだ。都会の詩である。

 浪華橋納涼   浪華橋の納涼
城影浮波月影新 城影は波に浮かび月影は新たなり
萬燈連店傍江濱 万灯店を連ねて江浜に傍ふ
納涼翻作納炎地 納涼翻って納炎の地と作る
鬧熱浪華橋上人 鬧熱す浪華橋上の人

浪華橋は天満橋、天神橋と合わせて大阪の三大橋、ライオン橋と言った方がわかりやすいかもしれない。江戸時代、浪華橋は夕涼みの人々でたいそう賑わったそうだ。「納涼翻って納炎の地と作る」人々の熱気で暑くて涼むどころか、と金峰は詠んでいる。そういえば昭和一桁生まれの私の両親は、夏の暑い時期、夕食後から床に就くまでの間は夕涼みをしていたと話していた。「テレビもなかったし暇やったんや、暇でしゃーないから四つ辻に出てどれだけ大きい石持ち上げられるかてしてたなあ」――父よそこは家で書物でも読んでいてほしかった。

話を戻して「城影は波に浮かび月影は新たなり」の「城影」は何か。「城春にして草木深し」(杜甫「春望」)のように漢文では「城」は町の意味になることが多いが、もちろん「白帝城高くして暮砧急なり」(杜甫「秋興八首」)のように「城」の意味になることもある。前者なら川面の波に映っているのは大坂の町並み、後者なら大阪城ということになるが、浪華橋から大阪城が川面に映って見えるのだろうか?

 『摂津名所図会大成』巻之十三上難波橋には

橋は百丈にして水ゆるく流れ、日は金城の上に出て影孤舟を沈む。諺に此所浪花第一の美景といへるもよろしきに似たり 

と「金城」という語がある。そして後藤松陰の詩にもこの「金城」が用いられている。

泉巒河嶺雪光寒 泉巒河嶺雪光寒し
來映金城辨得難 来たり映す金城弁じ得難し
誰人能喚猿郞起 誰が人か能く猿郎を喚び起こし
把這銀山粉壁看 這の銀山粉壁を把りて看せん

これは間違いなく大阪城だろう。「誰が人か能く猿郎を喚び起こし」(!)、「猿郎」とあるのだもの。四天王寺五重塔玉江橋の辺りでも見えたそうだから、大阪城も見えたのだろうなあ。

 橋といえばもう一つ、今はない四ツ橋を詠んだ詩。

過四橋聞歌者戲賦一詩呈從行諸君
 四橋を過ぎ歌う者を聞く。戯れに一詩を賦して従行の諸君に呈す
煙管商家對水前 煙管の商家水前に対す
按歌聲在木欄邊 歌を按ずる声は木欄の辺に在り
他年須記浪華夢 他年須く記すべし浪華の夢
井字橋邊川字絃 井字の橋辺川字の絃 

「歌を按ずる声は木欄の辺に在り」というのは川沿いの店から聞こえてくるのだろうか。それとも酔って欄干に寄りかかって歌っているのだろうか。ほてった顔に川面を渡る風は心地よさそうだ。「井字の橋辺川字の絃」の「井字の橋」は四ツ橋、「川字の絃」は三味線だろう。「煙管の商家水前に対す」というのは四ツ橋に煙管の店があったことを詠んでいる。『摂津名所図会』巻四下四ツ橋につぎのようにある。

西横堀に上繋橋・下繋橋、長堀に吉野屋橋・炭屋橋あり。これを合て四ツ橋といふ。二流十文字になりて橋を四方に架すなり。四ツの橋の行人、漕ぎわたる船の往来もたえ間なくして風景斜ならず。ここに源蔵張とて、煙管の店あり。世に名高し。四ツ橋を以て煙管の銘とするなり。 

たばこと塩の博物館あたりに行けば往年の四ツ橋の煙管が見られるかもと思っていたところ、受講生の方がスマホで検索してくださって、ヤフオク四ツ橋の銘のある煙管が出品されているのを発見。コレクターがいるのだろうか、煙管の世界も奥が深いようだ。 

富永屋がなくなる

   自分の無力をひしひしと感じている。

   向日市に現存する江戸時代の旅籠、富永屋が解体されるのを知ったのは4月のこと、ネットでいくつかの記事に上がっていた。紙の方も見た。信じられなかった。

   私は以前、向日市を含む乙訓地域の漢詩を取り上げて4本の論文を書いたことがある(現在、和歌に関する1本も投稿済みである)。最初、この地域に残された史料を調査に行くとき、私は漢詩の流行が地方にまで及んでいたとでもいうくらいの感覚でいた。正直なところ田舎の、素朴で愛すべき、しかし稚拙な詩人たちがせいぜい数人と思っていたのである。

   ところが調べ始めてみると、乙訓の詩人たちは神足村出身の宇田栗園を中心に、京都から栗園の友人で当時の詩壇の大御所である江馬天江を招き、非常に熱心に活動していたのであった。私は認識を改め、最初の論文の続編を書いて、それまで知られていなかったこの地方の詩壇を「乙訓漢詩壇」と名付けた(名付けたというか、そのまんま)。

    乙訓の人たちが当時の一流の詩人たちを招くことができたのは、ひとえに京都に向かう西国街道沿いという地の利によるものだ。向日市はその誕生から「町」として始まり、乙訓の中心として栄えた。現存する旅籠、富永屋は乙訓の豊かさのよってくるところのシンボルというべき存在である。もし仮に、将来、この古い道沿いの町屋が一つ一つなくなっていくとしたら(考えるのも苦しいが)、最後に残すべきは富永屋だろう、そういう存在だと思う。それがこんなに早くなくなってしまうことになるとは。

   文化財を個人所有として受け継ぐ者は、誇りを持ってその負担をも引き受けなければならない──そう考える人は多い。そして手放したり解体したりする持ち主は暗に非難される。実際、富永屋の件の報道があったとき、解体を決めた持ち主について、市の買い取り額に満足しないからといって文化財を破壊し、どこにでもあるような住宅を建てるのかと嘆く人は私の周りでも多かった。文化的価値のわからない持ち主で不運だったというわけだ。無理もない、報道(特に読売新聞の記事)は、そう読める文脈だったし、テレビの報道も持ち主がどれだけ苦しんだかはまったく伝わらないものだった。

   私は古い家屋が壊され、どこにでもあるような住宅になっていくのは仕方のないことだと思っている。私自身、空襲を免れて古い町並みが残る町に生まれ育ち、高度経済成長とバブルの時期に古い家屋が次々に毀たれていくのを見てきた。恩師のご自宅は重要文化財(私が在学時は国宝)で、そういうお宅を守っていく大変さも知っているつもりである。私なら積水ハウスに住むよりは、富永屋を修景してウン代目甚右衛門を名乗って住む方がおもろい人生だと思うけれど、ふつうの人はそうではないのもわかっている。暗くて寒くて段差があって不便で、ちょっとの修理で大金がかかる家屋に住むことを、他人が強いることはできない。

   そう、他人が住めと強いることはできないから、持ち主には行政がサポートする仕組みができている。向日市の場合、歴史まちづくり法に基づき、国交省の歴史的風致維持向上計画に認定されている。富永屋の保存活用はその重点事業になっている。

    ところが向日市は少なくとも10年前、ボランティアグループ「とみじん」の活動が始まったころから、富永屋になんのサポートもしていない。それどころか永井規男氏が所見を記した登録有形文化財の申請も何故かストップしているという。

    持ち主と向日市の交渉に何があったか詳しいことはわからない。だがこの交渉は一般の不動産の交渉ではない。商売ではないのである。向日市は市の宝として富永屋を守るため、粘り強く交渉するべきなのだ。

    それがなぜこんなデタラメなことになったのか。マスコミは向日市が熱心に交渉したというが、私が関係者に伺った実際のところは違う。高齢の持ち主は焦り、向日市の対応に絶望し、最終的には富永屋を自分の代で壊すことに決めたのだ。

    私が不思議なのは、向日市の人たちがほとんど沈黙を守っていることだ。向日市を含む乙訓は、歴史や文化に造詣の深い方たちがさまざまな活動をしている土地柄である。市に対して富永屋の交渉をやり直せと要求し、建て替えと同じくらい持ち主が安心できるプランを立ち上げる、そういう動きがほとんどない。富永屋がなくなったら西国街道沿いの歴史の町としてのシンボルがなくなるのに。土地の格も下がるだろう。京都市がオーバーツーリズムで悲鳴を上げている今、乙訓は観光客を呼び寄せる絶好のチャンスなのに、目玉の富永屋をつぶしてどうするのか。第一、国交省の予算がどうなっているのか、市民として市に開示を求めなくていいのだろうか。

    富永屋の持ち主であるご当主は、憔悴しきって、もうそっとしておいてほしいとおっしゃる。私がこんなことを書いているのも迷惑だと思う。しかしどのみちこんな弱小ブログは、すぐにインターネットの荒波に砕け散る。富永屋で検索しても例のニュースの記事にしか辿り着けなくなるだろう。

    研究者としては、富永屋を失ってしまうことは取り返しのつかない大変な損失であると言い続けるしかない。もしご当主が今からでも保存の方向を検討されるのなら、私は自分のできる限りのことをするつもりだ。同じように思っている人は他にもいる。富永屋を守ることは、日本中の同じような文化財を守ることに繋がるのだから。